藤田嗣治の作品に会える美術館!「アッツ島玉砕」が批判されたワケとは?

藤田嗣治の作品に会える美術館!「アッツ島玉砕」が批判されたワケとは?出典:http://speakeasy-kobe.blogspot.jp/

藤田嗣治の作品に会える美術館!「アッツ島玉砕」が批判されたワケとは?

藤田嗣治の作品に会える美術館!生誕130周年の記念展開催

藤田嗣治は、誰にも真似のできない「乳白色の肌」の裸婦像で世界を魅了した画家です。2016年で生誕130年を迎えるのを記念して、「生誕130周年 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画」と題した大規模な展覧会が開催されています。人生の大半をフランスで過ごした藤田嗣治の、国内外に散らばる作品およそ150点を集めた大規模な展覧会。

日本ではめったに見ることのできない作品にも会うことができます。名古屋美術館、兵庫県美術館、府中美術館と各地を巡回するので、日本各地で藤田嗣治の名作を目にする機会ができそうです。

藤田嗣治の「アッツ島玉砕」に昇華された悲劇!批判されたワケとは?

藤田嗣治の作品というと、優美な女性像や猫といったモチーフが有名です。しかし、戦時中には、陸軍美術協会理事長に就任し、従軍画家として戦争画を描いてます。当時、藤田嗣治は、フランスを中心に画家として活動していましたが、第二次世界大戦中が勃発すると日本に帰国。そして戦争画として描かれたのが「アッツ島玉砕」です。過酷を極めたアッツ島での戦いの末、玉砕した日本軍の姿を克明に描いていたことから、展示された作品の前で手を合わせる人が絶えなかったといいます。しかし、終戦後には、従軍画家としての活動が戦意をあおった戦争協力者として、日本画壇から強い批判を受けます。藤田嗣治は批判にうちのめされ、失意のうちに日本を去ったそうです。

藤田嗣治「異邦人」生涯の内容!最後のアトリエ、ランスの礼拝堂とは?

藤田嗣治「異邦人」に描かれた孤高の画家の歩みと苦悩した生涯の内容!

藤田嗣治は従軍画家としての活動が批判されたため、日本国内では生前、ほとんど評価されず、知名度も高くありませんでした。そんな藤田嗣治という孤高の画家がたどった生涯を詳細に知ることができるのが、ノンフィクション「藤田嗣治 異邦人の生涯」(近藤史人)です。藤田嗣治の手記や周囲への取材をもとに構成された「藤田嗣治 異邦人の生涯」を読むと、日本の閉鎖的な画壇から飛び出し、苦労の末に海外で成功を掴みながら、戦争画を描いたことで批判を受け、日本を去ることになった孤高の画家の歩みと苦悩を知ることができます。「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と語らざるをえなかった画家・藤田嗣治の心のうちがのぞけ、なんとも言えない気持ちにさせられるのです。

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藤田嗣治の最後のアトリエ、ランスの礼拝堂を埋め尽くすフレスコ画を見よ!

藤田嗣治は、批判に追われるようにして日本を去ると、再びフランスに渡り、アトリエを構えます。傷心の胸のうちを埋めるためか、1959年には、72歳の藤田嗣治は、ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受けます。そして、最晩年にはランスへの感謝を示したいと礼拝堂の建設を決意。1966年には壁画に着手し、毎日12時間も作業し、数カ月間もかけて壁画を完成させました。完成した礼拝堂「フジタ礼拝堂」の壁は、藤田の筆によるフレスコ画で埋め尽くされています。また、礼拝堂のための習作が多く残された、パリ郊外にある藤田嗣治の最後のアトリエは、現在公開されています。

藤田嗣治と二度の大戦

藤田嗣治は、晩年の全精力を注いだランスの「フジタ礼拝堂」の完成から2年後に、81歳で亡くなっています。藤田嗣治の遺体は、自身で完成させた礼拝堂に収められ、死してなお日本に戻ることはありませんでした。しかし、藤田嗣治は決して日本を嫌っていたわけではありません。藤田嗣治は日本文化を愛し、日本画の技法と西洋画の技法を独自にミックスし、誰にも真似できない世界を生み出しました。
「私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。私は世界に日本人として生きたいと願う。それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う」、藤田嗣治が残したこんな言葉には、生まれ故郷である日本への強い思いがあり、日本人としての誇りをもっていたことがうかがえます。
藤田嗣治は1886年、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に生まれました。幼い頃から、絵に興味を持っていた藤田嗣治は、東京高等師範学校附属中学校を卒業する頃には、絵画を学ぶためにフランスへ渡りたいと考えるようになります。周囲の勧めもあり、一度は東京美術学校(今の東京芸術大学美術学部)に進学した藤田嗣治でしたが、表面的な技法ばかりを追求する授業に失望。また、当時は、フランス留学から帰国した黒田清輝を中心にしたグループが日本画壇を支配しており、印象派や写実主義の物まねがもてはやされていたためか、藤田嗣治が展覧会等に出品しても落選が続いたといいます。
そんな状況を打破するため、藤田嗣治は1913年に、ついにフランスに渡ります。パリでは、キュビズムやシュールレアリズムといった新しい絵画の潮流がすでに生まれており、その自由さや奔放さに魅了された藤田嗣治。それまで教えこまれてきた技法を捨て、作風を一新することになります。パリでは、芸術家が集う街といわれるモンパルナスにアトリエを持った藤田嗣治は、ピカソ、ルソー、モディリアーニらと親交を深めていくように。
しかし、折悪く第一次世界大戦が勃発し、日本からの送金は途絶え、藤田嗣治の生活は困窮。戦時下では絵も売れず、自身の絵を焼いて暖をとることもあったとか。藤田嗣治のトレードマークともいえるおかっぱ頭も、この頃に節約のために自分で髪を切っていたことから生まれたといわれています。
それでも、大戦が終わると、戦後の好景気も追い風となり、藤田嗣治の絵は売れはじめます。個展は大盛況となり、絵は高値をつけるように。ヨーロッパ各地で高い評価を受け、フランスやベルギーからも勲章を贈られ、経済的にも成功をおさめました。
しかし、その成功が、のちに藤田嗣治を苦しめることになります。二度目の大戦が勃発し、日本に帰国して従軍画家として活動した藤田嗣治。戦争中、絵を称賛した周囲は、戦後は手のひらをかえしたように藤田嗣治を糾弾します。親族に軍関係者が多かったことや、ヨーロッパでの成功をやっかまれたこともあり、なかばスケープゴート的に大バッシングを受けたのです。
日本を去らざるを得なかった藤田嗣治の存在は、日本では葬り去られ、日本画壇は長く彼の絵を評価することをしませんでした。「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください。日本画壇は早く国際水準に到達してください」という言葉を日本に残し、フランスに帰化した藤田嗣治。生涯日本へは戻らなかったといいます。
没後、藤田嗣治は日本でも再評価されましたが、もっと早く評価されていたらと思わずにはいられません。

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