増田恵子の現在!ピンクレディーケイちゃんを襲ったバセドゥ病とは?

増田恵子の現在!ピンクレディーケイちゃんを襲ったバセドゥ病とは?

増田恵子の現在は女優、ピンクレディーの活動も立ち消え!バセドゥ病の発症はいつ?

増田恵子は、1970年代後半の日本に社会現象をもたらした、「UFO」「ペッパー警部」などのヒット曲で知られるピンクレディーのケイちゃん。現在も、バラエティ番組で、時々見かけることがありますが、あまり積極的な芸能活動は行っていない様子です。

増田恵子は、1981年のピンクレディー解散以降、女優に転向していますが、2003年を最後に、ドラマや映画への出演は皆無。かつてのパートナー未唯と再結成したピンクレディーの活動も、2011年を最後に、新たな話題は聞こえてきません。実は増田恵子は、ピンクレディー解散から10年目、念願の映画初出演の撮影中に、バセドゥ病を発症しています。

バセドゥ病とは、甲状腺ホルモンが過剰に作られる難病。症状としては、四肢の麻痺や頚部の膨張、眼球突出による視力低下が代表的です。増田恵子は、不調を、3年間も周囲に隠し続けた結果、たった数段の階段すら登れないほど症状が悪化。投薬によって、結婚前には症状が落ち着いていたものの、再び悪夢が蘇ることとなってしまいました。

増田恵子はピンレディー再結成でバセドゥ病再発!メニエール病も発症していた!

増田恵子にピンクレディー再結成の仕事が舞い込んだのは、バセドゥ病の症状が落ち着き、結婚した翌年の2003年のことでした。仕事の予定は、2年間で、ステージ約100本。すでに40歳を超えていた増田恵子でしたが、”ピンクレディーのケイちゃん”として、ファンをがっかりさせないために、かつてと同様の激しいダンスに挑みます。しかし、この肉体への過剰な負担が、増田恵子のバセドゥ病を再発させてしまいます。

再結成会見時の増田恵子の膨らんだ首に異様さを感じていたファンも少なくありませんでしたが、彼女は決して病気を明かさずにコンサートツアーを完遂。もはや病状を隠せなくなった2005年のツアー終了時に、自身のブログにて、バセドゥ病を告白しました。加えて2013年には、難聴やめまいを伴うメニエール病を発病しています。現在の増田恵子は、継続的な仕事で体を酷使することが難しいため、あえて仕事をセーブしている状態といえそうです。

増田恵子の夫・桑木知二とは?野口五郎は熱愛彼氏だった?

増田恵子の夫・桑木知二は元ギルド・ジャパン社長!会社倒産で離婚の可能性は?

増田恵子が2002年6月23日に結婚した夫は、4歳年上の桑木知二です。東京都出身で、早稲田高等学校卒業、青山学院大学を中退している桑木知二。増田恵子との結婚時は、音響会社「ギルド・ジャパン」の社長でした。「ギルド・ジャパン」は、ミキサー技師だった桑木知二が、1986年に設立した会社。1990年代を中心に、多くのドラマや映画の音響を手掛けた他、JINROのCMでは、郵政大臣賞を受賞しています。

増田恵子と桑木知二は、テレビ番組を通じた約20年来の知り合いで、その間には、1年ほど交際していた時期も。増田恵子と夫・桑木知二の結婚は、いわゆる”元サヤ婚”でした。音符型の結婚指輪は、音楽によって築き上げられた2人の固い絆がうかがえるものでした。

桑木知二が社長を務める「ギルド・ジャパン」は、2004年1月に自己破産しましたが、関係者によると、夫婦仲は良好で、離婚の心配は全くなし。2人には子供はいないものの、増田恵子にとって、バセドゥ病の闘病を支え続ける桑木知二は、かけがえのない存在となっているようです。

増田恵子と野口五郎の熱愛がピンクレディーの解散理由だった!?

増田恵子は、著書「あこがれ」の中で、ピンクレディーがアメリカ進出を果たした1979年に、野口五郎と熱愛関係にあったことを明かしています。当時の野口五郎といえば、西城秀樹、郷ひろみと並んで”新御三家”と呼ばれた大人気アイドル。その頃のピンクレディーは、日本でのセールスが振るわなくなっていたとはいえ、もしスッパ抜かれていたとしたら、かなりの大ニュースとなっていたことは間違いありません。

今となっては過ぎたる話ですが、ファンにとって聞き捨てならないのは、この2人の関係が、ピンクレディーの解散理由だったという噂。ピンクレディーのアメリカ進出を前に、野口五郎と熱愛中だった増田恵子がグズグズ言い出したことで、未唯との間に軋轢が生まれてしまったのは事実のようです。

そして、アメリカ進出で成功をおさめた後、増田恵子が野口五郎との結婚を熱望して、ピンクレディーが解散に至ったとの噂。増田恵子は、将来を考えて女優転身を望んだことが原因だったとしていますが、それは後付けの解散理由だった可能性もありそうです。

増田恵子が苛酷すぎるピンクレディーのケイちゃん時代に望んだ幸せ

増田恵子にとって、”ピンクレディーのケイちゃん”とは、レコード大賞や紅白歌合戦出場という栄光の中にあっても、幸福とまではいえるものではなかったのかもしれません。中学、高校時代の同級生であった未唯と結成したフォークデュオ「クッキー」を足がかりに、1976年の「スター誕生!」から生まれたピンクレディー。

太ももを露わにした衣装や激しいダンスという、当時としては型破りなスタイルは、元来の2人のイメージとはかけ離れたものでしたが、その斬新さで、一気に人気に火が付きました。デビュー曲「ペッパー警部」がスマッシュヒットとなると、続く「UFO」の頃には、テレビへの露出が一気に増加。

イベントやコンサート、それにかかるレッスンを不眠不休でこなす中、増田恵子の疲労は、触れられただけで皮膚に激痛が走るまでに陥っていました。1979年に、「KISS IN THE DARK」で全米デビューを果たしたピンクレディーは、現地で準レギュラー番組を獲得しています。

しかし、増田恵子にしてみれば、人気に陰りが見え始めても尻を叩き続けられるピンクレディーから逃れたい一心だったのかもしれません。野口五郎との熱愛の背景には、全ての青春をピンクレディーに投げ打った若き増田恵子の苦悩がうかがえます。おそらく、バセドゥ病は、その頃の激務の爪痕。闘病生活は辛いでしょうが、芸能活動も緩やかになり、夫・桑木知二と仲睦まじく暮らす毎日は、あの頃の増田恵子が望んだ幸福なのかもしれません。

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