島倉千代子と細木数子の関係は?借金地獄の壮絶人生!
島倉千代子を地獄の借金地獄に追い込んだのは細木数子だった?!
島倉千代子は、1938年生まれの演歌歌手。1970年代に入り、歌手としては順調であった島倉千代子を、不幸が襲いました。かつて失明寸前になったところを助けてもらった眼科医の頼みで、実印を貸してしまった島倉千代子。知らない間に、眼科医だけでなく、マネージャーや、全く面識のない赤の他人まで、数多くの人々の保証人にされてしまいました。
これにより、島倉千代子は、当時の金で、20億円近い借金を背負わされるはめになります。しかも、その借金の多くが、ヤクザや、筋の悪い街金へと流れてしまったとか。ここに登場したのが占い師の細木数子でした。裏社会にも通じていたという細木数子は、表向きは島倉千代子の借金の整理役に。
しかしその実態は、島倉千代子の興行権を丸3年間押さえて、実際の借金をはるかに上回るギャラをピンハネしていたといいます。これが、硬派ジャーナリスト溝口敦による「細木数子魔女の履歴書」に詳しくリポートされている島倉千代子の借金地獄のからくりでした。こんな絶望的暮らしの中でも、島倉千代子は歌を歌い続け、歌が支えとなって、その借金地獄からさえ抜け出すという「人生いろいろ」を身を持って示しました。
島倉千代子は美空ひばりと並ぶ昭和の代表的演歌歌手だった
島倉千代子は、1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、まだ15歳で、同社の専属契約歌手となります。そして翌1955年のデビュー曲「この世の花」は、売上200万枚を達成。続けて1957年には、「東京だョおっ母さん」が150万枚の大ヒットし、映画化もされて、自らが主演を務めました。そしてこの年、初めてNHK紅白歌合戦に初出場を果たします。また、すでに大歌手であった美空ひばりとの共演をきっかけに、2人は生涯を通じて、姉妹のような間柄となりました。
しかし、1960年代に入ると、島倉千代子の人生の歯車は、大きく狂い出します。1961年には、ファンの投げたテープが目に当たり、失明寸前になりますが、なんとか失明を免れます。このとき治療を担当したのが、後に実印を貸すことになる眼科医です。まさにこれが不幸の始まりでした。
1963年には、周囲の反対を押し切って、元阪神タイガースの藤本勝巳と結婚しますが、結婚前、そして結婚後に授かった3人の子供を中絶してしまった島倉千代子。この3人の子供をおろしたことがきっかけで、夫婦生活は冷め、すれ違いの生活と別居の末、2人は離婚してしまいます。
かつての演歌歌手は、売れっ子であればあるほど、壮絶な人生の体験者でもありました。不幸な生い立ち、病苦、貧困、異性問題、信頼した人の裏切り、莫大な借金など、およそあらゆる厄災を抱えながら、歌一筋に生きていく、演歌そのものの人生。昭和を代表する演歌歌手、島倉千代子もまた、そんな演歌歌手の1人でした
島倉千代子の死因は何?「この世の花」「人生いろいろ」名曲多数!
島倉千代子の晩年は乳がんや肝臓がんとの壮絶な闘病生活だった
島倉千代子の晩年は、一般にはあまり知られていませんが、乳がんや肝臓がんによる壮絶な闘病生活を重ねていました。島倉千代子は、2010年に、肝臓癌であることが判明して以来、手術・入退院を繰り返していましたが、2013年前半には、ついに肝硬変へと病状が悪化します。
しかし、同年3月30日、75歳の誕生日には、コロムビアレコードの100周年を記念して復活したイベント、「コロムビア大行進2013」に出演。数千人の聴衆を前に、気丈にも数曲を熱唱しました。これは、とても普通の人にはできないことですが、島倉千代子の心の内には、死を前にした美空ひばりの、伝説の不死鳥コンサートが、きっとあったに違いありません。
島倉千代子は生涯を通じて2000曲以上の曲を歌っていた!
島倉千代子は、生涯を通じて、2000曲以上の曲を歌ったといわれています。デビュー曲である「この世の花」は、人気小説の映画化作品の主題歌として世に出ると、売上200万枚を達成するといういきなりの大ヒットに。続く、「逢いたいなァあの人に」「東京だョおっ母さん」「からたち日記」など、デビューから1960年までに出された曲も、軒並みミリオンヒットを記録しました。1960年代以降も島倉千代子のリリースは止まらず、どの曲も確実にヒットを重ね、「ほんきかしら」や「愛のさざなみ」など、斬新な楽曲にも挑戦しています。
そして1987年に登場したのが、島倉千代子の人生そのものといってよい、「人生いろいろ」でした。タレントのコロッケによる島倉千代子の物まねが受けたことで、若者の間でも知名度が高まったこともあいまって、大ヒットを飛ばすことになりました。
島倉千代子のまさに「人生いろいろ」を生き抜いた生涯とは
島倉千代子しかり、思えば、昭和の歌手たちは、ステージ上の輝く栄光だけでは、とても埋めきらない多くの不幸を抱えていました。それらはまた、戦後間もない日本が抱える数々の矛盾や不幸とも重なりあっていました。今でこそ、美空ひばりや島倉千代子は、昭和の歌姫、レジェンドともてはやされていますが、事件や不幸が起るたびに、世間の激しいパッシングにさらされた彼女たちは、どれだけ孤独であったことでしょうか。
やがて、島倉千代子らが歌う流行り歌は、1960年代から1970年代へと続く政治の時代に、孤独な民衆の心の叫びといった、うがった見方がされるようになり、人々の怨み歌、演歌として定着。演歌で売れたいのならば、不幸であるほどよいといった逆説を生みます。そのもっとも悲劇的な存在が、藤圭子であったといえるでしょう。しかし、1970年代に起こった音楽業界におけるビッグバンは、演歌界すら飲み込み、演歌は音楽業界の中で、今や少数ジャンルとなってしまいました。
島倉千代子の「人生いろいろ」は、彼女の多くのヒット曲の中では、ポップス的テイストの強い異質な1曲ですが、彼女の最大のヒット曲であり、代表曲。しかし、「人生いろいろ」のヒットの影にさえ、最愛の姉の自殺や、がんの病魔が彼女を襲うという悲劇が潜んでいたのです。
島倉千代子は、このヒットを第二のデビューとして、その後も歌を歌い続けます。そして2013年、島倉千代子は亡くなりました。彼女の告別式には、3000人を超える無名のファンたちが集まり、出棺の時には「人生いろいろ」が流され、みんな手拍子で島倉千代子を送ったそうです。