荒井広宙は日本競歩界初のオリンピックメダリスト!妨害失格から一転!
荒井広宙がリオオリンピックで日本競歩界初メダリストに!日本陸連が80年かけて獲得した銅メダルに隠された秘話
荒井広宙(あらいひろおき)は、1988年5月18日生まれの28歳。日本代表として、リオオリンピック男子50km競歩に出場し、銅メダルを獲得しました。
日本人が、初めてオリンピック競歩に出場したのは、1936年のベルリンオリンピックのことです。しかし、前回ロンドンオリンピックまで、競歩のメダルはゼロ。今回のリオオリンピックで、ようやく表彰台に乗るという目標を達成しました。しかし、荒井広宙が日本競歩界初となる銅メダルを獲得するまでの道のりは、順調だったわけではありません。
背景には、日本陸連と共に実施してきた、あらゆる強化策がありました。きっかけは、2003年にパリで行われた世界選手権。日本から出場した3人の選手が、歩型違反で失格という事態になったことから、世界と日本国内の判定基準に違いがあることが露見します。
精査したところ、国内では、大会を開催する地元の陸上競技協会が選任した審判が、国際基準とかけ離れたジャッジをしていたことが判明。日本陸連は、国内の大会にも国際審判を招いたり、研修を行ったりすることで、国際試合での警告を徐々に減らしていきました。荒井広宙の悲願の銅メダル獲得の裏には、日本陸連の地道な取り組みがあったのです。
荒井広宙があわや失格?!レース中の妨害行為とは?
荒井広宙は、リオオリンピック男子50km競歩3位でゴールしたものの、レース直後には「失格」と判定されてしまいました。失格の根拠となったできごとが起こったのは、ゴールまであと少しの地点でのことです。一度は、カナダの選手エバン・ダンフィーに抜かれた荒井広宙。再度追い越そうとデットヒートしていた時、お互いの腕がぶつかるハプニングが。その直後に、バランスを崩したように見えたエバン・ダンフィーは、そのままペースダウンします。
これは、荒井広宙による、エバン・ダンフィーに対する妨害行為だとカナダ側が抗議し、国際陸連がそれを受け入れ失格判定となりました。しかし、競歩において、選手同士がぶつかり合うことはよくあることです。承服できない日本陸連は、試合映像に基づく詳細な意見書を作成し、即刻上訴。3時間を越えたころ、失格判定はようやく取り消され、あらためて荒井広宙が銅メダルを手にすることとなりました。
「次につながるレースになった」と冷静にコメントした荒井広宙が、エバン・ダンフィーから謝罪され、互いに抱き合い健闘を讃えあった逸話を明かすと、世界中からスポーツマンシップを賞賛する声が相次ぎました。
荒井広宙の競歩は高校時代から!出身大学、現在の所属は?
荒井広宙が競歩を始めたのは高校2年!1学年上には藤沢勇が!
荒井広宙が競歩を始めたのは、高校2年生の時。電気機器関係の仕事に就こうと、長野県中野実業高校(現中野立志舘高校)に入学し、そこで競歩競技と出会います。地元長野県にある小布施中学校に通っていた当時は、陸上部に所属していた荒井広宙。同級生には、箱根駅伝で活躍した高野寛基もいたそう。
高校でも陸上部に入部した荒井広宙は、1学年上の藤沢勇が練習していた競歩に刺激を受け、競歩に転向します。藤沢勇といえば、今回のリオオリンピック20km競歩に出場していた代表選手です。藤沢勇の記録は1時間22分03秒で21位でしたが、松永大介が7位入賞を果たしていますので、日本の競歩界は、確実にレベルアップしているといえるでしょう。
荒井広宙の出身大学と今の所属は?
荒井広宙の出身は、長野県上高井郡小布施町。長野県の北東に位置する町で、栗をモチーフにしたゆるきゃら「おぶせくりちゃん」がマスコットになっています。また、葛飾北斎が晩年を過ごした地としても有名な小布施町には、北斎館が。高校までは地元で過ごした荒井広宙でしたが、大学は福井工業大学へ進学し、大学3年生の時に、日本選手権6位の成績を残しています。
福井工業大学卒業後は、北陸亀の井ホテルに就職し、石川陸上競技協会に所属。2011年の世界選手権へ出場し、ロンドンオリンピック代表を目指しますが、10位に終わり、惜しくも出場を逃しました。2013年から、自衛隊体育学校に所属変更した荒井広宙は、2015年の世界陸上4位と大きく躍進します。その年の全日本選手権で、リオオリンピックへの切符を手にしました。
荒井広宙の亡き母「東京オリンピックまではがんばってほしい」の願い胸に……
荒井広宙がリオオリンピック男子50km競歩で銅メダルを獲った功績は、日本陸連の取り組みや、所属している自衛隊体育学校での練習が実を結んだ結果であることは間違いありません。しかし、荒井広宙にとって、リオオリンピックでの銅メダルは、その先に続く東京オリンピックへの通過点だといいます。荒井広宙には、東京オリンピックでも、結果を残さなければならない理由がありました。
それは、2015年夏に世界選手権4位と健闘した荒井広宙に、「東京オリンピックまでは頑張ってほしい」と願った、荒井広宙の母・繁美さんの言葉に応えたいという気持ちです。しかし、母・繁美さんは、同年11月に卵巣がんで亡くなってしまいました。母の想いを胸に挑んだ全日本選手権では、トップから離されること1分以上、40km付近に、母の遺影を胸に掲げた父・康之さんによる「頑張れ!」の声が。
荒井広宙は、いつも支えてくれた母の願いを叶えるべく、苦しい最中、さらにペースアップします。トップとの差を40秒ほども縮め、2位でゴールしました。これにより、リオオリンピック派遣設定記録もクリアしていた荒井広宙は、初めてのオリンピック出場権を獲得したのです。
リオオリンピック出場選手の中には、父を亡くした吉田沙保里や、母を亡くした伊調馨など、故人を想いながら競技に打ち込み、見事な結果を残した選手も少なくありません。ハードなトレーニングや、綿密な作戦は当然のことですが、しのぎをけずるトップアスリート同士の勝敗には、大切な人への想いも、大きな原動力になっているに違いありません。