2017年4月18日 更新
桂歌丸の病気に相次ぐ死亡説!「笑点」引退で流した涙
桂歌丸は「笑点」放送開始からのメンバーで終身名誉司会者に
しゃべりの格闘家・古舘伊知郎をして「全身噺家」と言わしめたのが、桂歌丸です、日本テレビ伝説のお笑い番組「笑点」に、1966年の番組開始当時から出演。2007年9月より5代目の司会を務め、2016年5月になると、自らの病気、体力の限界により、司会を勇退し、終身名誉司会者となりました。
桂歌丸が勇退する直前まで、「笑点」では、桂歌丸の死亡ネタで盛り上がる場面も見られましたが、一方で、まことしやかに死亡説が流れることもしばしばな桂歌丸。体重が激減していることは明らかで、見るたびにやせ細っていく様子が、死亡説に妙な説得力を与えていたことは否めません。
桂歌丸が「笑点」引退番組収録後に流した涙の重さ
桂歌丸は、「笑点」最終回の収録が終わった直後、この半世紀の思いに感極まったのか号泣したそうです。確かに、初代の司会者・立川談志をはじめ、歴代司会者である前田武彦や初代三波伸介、五代目三遊亭圓楽、そしてハゲ、お化けと罵りあって番組を盛り上げた三遊亭小円遊(さんゆうていこえんゆう)も、みんな亡くなってしまいました。
思えば、多くの人気落語家を生み出した「笑点」の中では、一番地味で古風であった桂歌丸。また、番組開始から50年続けて出演はしていたものの、その間、何度も持病である肺の病気や腰の手術で番組を休養。そのたびに降板が取り沙汰されていました。
番組がマンネリ、という批判にも、「マンネリってことは、長く続いているということ。それに批判があるのは、それだけ見てくれ、気にしてくれていること」と、受け止めることができるようになったのは、桂歌丸自身、長い葛藤と自問があってのことだったでしょう。
桂歌丸を人間国宝に推す声!落語家を目指したきっかけは?
桂歌丸は生粋の浜っ子で小学校でいっぱしの落語少年だった
桂歌丸は、1936年生まれで80歳。生粋の江戸っ子のように思われがちですが、実は、浜っ子です。実家は、横浜の真金町で遊郭を営んでいました。色町に育ち、小さい頃からさまざまな芸事に接していたという桂歌丸。祖母に連れられ大衆演劇を見たり、ラジオから流れる落語に夢中になっていました。
戦後、小学校が再開された頃には、桂歌丸は、いっぱしの落語少年として人気者となっていたそうです。中学校の時、当時二つ目だった五代目春風亭柳昇の落語を聴き、落語家になる決意を固めました。中学を卒業すると、親戚の「一番面倒見の良い人だから」という薦めで、1951年、五代目古今亭今輔に弟子入り、古今亭今児を名乗ります。
1954年には、順調に二つ目に昇進しますが、古今亭今輔門下から兄弟子・四代目桂米丸門下への移籍問題で、一度は落語界を離れることに。1964年、落語家として復帰が叶うと、桂歌丸となり、1966年に「笑点」のレギュラーとなり、1968年、真打へと昇進します。以後半世紀、「笑点」とともに落語に精進する日々が続いてきました。
桂歌丸を六代目三遊亭圓楽が人間国宝に推すのは六代目三遊亭圓楽襲名の恩返し?!
桂歌丸は、四代目三遊亭小圓遊との掛け合いで、怒りっぽいハゲというキャラクターがつき、視聴者に親しまれるようになりました。後年は、六代目三遊亭圓楽を襲名した三遊亭楽太郎との掛け合いが人気でした。
これは、レギュラーになったばかりだった六代目三遊亭圓楽が、笑点での位置づけに悩んでいたとき、桂歌丸が、助け舟を出したのだとか。六代目三遊亭圓楽にとって、桂歌丸は、「笑点」での命の恩人。これが、大名跡である圓楽襲名の弾みともなりました。洒落か真か、今度は六代目圓楽が発起人となって、桂歌丸を人間国宝に推薦しようと署名活動を始めています。
現在すでに数万人の署名が集まっているそうで、これにはさすがの桂歌丸も、うれしいやら面はゆいやら。どうやら、洒落では終わらない勢いのようです。
桂歌丸が古舘伊知郎に「全身噺家」と言わしめた壮絶な高座の姿
桂歌丸の病状は、洒落ではすまないようです。事実、この1年間は、入退院を繰り返しています。つい先日も、肺炎と診断されて入院したとの一報が流れました。とはいえ、仕事はこの夏頃まで埋まっていて、体調さえ許せば、今でも高座に上がっているというから驚きです。
桂歌丸が高座に上がるときは、酸素吸入器を傍らに、鼻にチューブをさして酸素を送りながら、という壮絶な姿。観客も、さすがに息をのんでしまいますが、いざ話を始めると、時事ネタなどを巧みに交えながら、1時間近くの演目を見事にやってのけるですからやはりたいしたものです。テレビ朝日の特番「古舘伊知郎ショー~THE・マッチメイカー~」で、古舘伊知郎と対談した桂歌丸は、さすがにこの状態で落語を続けるのはいかがなものかと、引退の時期について悩んでいると語っていました。
しかし、桂歌丸の高座を目の当たりにした古舘伊知郎は、「高座に上がって座布団に座れば、まさに全身噺家」と大絶賛。桂歌丸は、死ぬまで高座に上がり続ける腹だろうと、彼の心の奥底を慮っていました。東京落語は、戦後、その時代時代に新しい才能が生まれ、今日も隆盛を誇っています。
一方で、師匠名人と呼ばれ、江戸情緒と昭和の風情を残す落語家は、本当に少なくなってきました。桂歌丸師匠には、もうしばらく、死なない程度に、がんばっていただきたいものです。