田辺靖雄の病気は突然に…今も続く妻・九重佑三子との固い絆!
田辺靖雄が原因不明の病気で歩行不能に!妻・九重佑三子の献身が夫を救った!
田辺靖雄といえば、梓みちよとのデュエット「ヘイ・ポーラ」や、「よせばいいのに」で知られるムード歌謡の先駆け的存在です。そんな田辺靖雄を不運が襲ったのは、2007年のこと。ある日突然、原因不明の病気に侵された田辺靖雄は、自力で歩行することができなくなってしまったといいます。
田辺靖雄の妻は、1967年の人気ドラマ「コメットさん」として活躍した歌手の九重佑三子です。九重佑三子は、森繁久彌夫妻の媒酌で1973年に結婚してから30年以上、病気を患った夫を目の当たりにしたことがなかったため、大変うろたえたといいます。ただちに田辺靖雄を連れて病院に行くと、医師は九重佑三子に、「ご主人は、もう普通の暮らしはできないから入院するように」と告げました。
普通ならば、言われるがままにするところですが、九重由三子は、「自分が治す!」と、田辺靖雄を自宅に連れ帰ってしまいます。精神的に憔悴し、「車椅子も居心地がいい」という田辺靖雄に、九重佑三子は、「楽になれると立ち直れなくなる!」と叱咤し、献身的な看病とリハビリ介助を続けました。妻の姿に奮起した田辺靖雄は、壮絶なリハビリを乗り越え、約1年で歩けるまで回復したそうです。
田辺靖雄と妻・九重佑三子は芸能界きってのおしどり夫婦!一緒に過した分だけ絆は強く
田辺靖雄と妻・九重佑三子は、互いに60~70年代アイドルとして青春を分かち合い、結婚以降は、共にコンサート活動を行ってきた、芸能界きってのおしどり夫婦です。田辺靖雄が2005年にリリースしたシングル「いっしょ」よろしく、病気を共に乗り越えたことによって、2人の絆は、”一緒”という想いによってさらに固くなったといいます。
壮絶な病気体験を乗り越えた田辺靖雄は、「治った自分にできることはないか?」と考え、車椅子2000台をボランティア団体に寄付しました。九重佑三子も、「人間、何事も経験しなくては分からないという神の思し召し」と夫の考えに賛同し、以来、夫婦で、全国チャリティコンサートなどの福祉活動を精力的に続けています。
田辺靖雄は「水上では寄り添って見えるおしどりは、水中では足を蹴飛ばしあっているんですよ」などといいますが、この夫婦には、それもじゃれ合いのうち。熟年離婚も多い世の中で、この夫婦関係は、誰もが憧れるところです。
田辺靖雄の息子・田辺晋太郎ってどんな人?大原麗子との関係は?
田辺靖雄の息子・田辺晋太郎は作曲家兼マツコ・デラックスも驚く肉マイスター!
田辺靖雄と妻・九重佑三子の間には、1978年11月5日に、息子・田辺晋太郎が誕生しています。田辺晋太郎は、TM NETWORKの小室哲哉に憧れて音楽プロデューサー兼作曲家になったそうで、AKB48・渡辺麻友をはじめ、城田優や瀬戸康史、海外歌手などへの楽曲提供の実績を築いた実力派です。
また、妻でフリーアナウンサー・本村由紀子との間に、2007年、2012年生まれの息子を持つ、2児の父親でもあります。そんな田辺晋太郎ですが、2016年1月放送の「マツコの知らない世界」への出演をきっかけに、マツコ・デラックスも驚く、肉目利きのプロ「肉マイスター」としての顔のほうが有名になりつつあります。
収入の8割を肉につぎ込み、コンビニの唐揚げから高級肉まで、これまでに1トン以上の肉料理を食べつくしてきたという田辺晋太郎。幼い頃から、両親の出演する旅番組やディナーショーに同行し、各地の名物料理を食べて来たことで、類いまれなる舌を手に入れたといいますから、何とも羨ましい話です。
現在は、自ら立ち上げた一般財団法人「食のコンシェルジュ協会」代表理事として、調理技術はもちろんのこと、食に関するあらゆる知識とスキルを活かして、検定などを実施しているそうです。
田辺靖雄が大女優・大原麗子誕生のきっかけに!「六本木野獣会」とは?
田辺靖雄は、2009年に脳出血で他界した、波乱の大女優・大原麗子が女優になるきっかけとなった人物です。1961年、16歳で、渡辺プロダクションにスカウトされて芸能界デビューすることになった田辺靖雄は、初出演映画「高校生と女教師 非情の青春」のエキストラの中に、ひと際かわいい15歳の大原麗子を見つけました。
その時、「野獣会に来ないか」と誘ったことで、大原麗子は女優への第一歩を踏み出すことになります。「野獣会」は、田辺靖雄を中心に構成されていた、六本木界隈で遊び回るディーンエイジャーグループです。「六本木野獣会」とも呼ばれ、メンバーは、峰岸徹、中尾彬、小川知子、井上順、ムッシュかまやつなど、30名前後の裕福なアーティスト志望者たちが、ほとんどでした。
「野獣会」は、50年代後半から60年代前半まで存続していましたが、多くがスターとなってしまったために自然消滅しています。大原麗子は、亡くなる1年前の電話で、田辺靖雄に、「ヤッチン(田辺靖雄)に誘ってもらわなかったら、女優になってなかった」と言ったそうです。当時の大原麗子に淡い恋心を抱いていたという田辺靖雄は、晩年は精神を病んでいたという彼女のこの言葉には、悔やみきれない思いがあったようです。
田辺靖雄が築き上げた歴史の重み!「日本歌手協会」代表理事として見守る日本歌謡界の行く末は
田辺靖雄は、多くのスターを生み出した「六本木野獣会」を率い、昭和の歌謡界に新しい風を吹き込みました。田辺靖雄の歌手としての大ヒット曲でもある、1963年の「ヘイ・ポーラ」は、洋楽のカヴァー曲でもあり、当時は、かなりトッポいイメージがありました。
「雲に聞いておくれよ」で、同年末の紅白歌合戦に出場し、翌年の「二人の星を探そうよ」の大ヒットで、ムード歌謡のスター歌手となった田辺靖雄。「コメットさん」で人気絶頂だった妻・九重佑三子と結婚し、病気など、数々の経験を積む中で、今では、日本歌謡界を見守るかけがえのない存在となっています。
田辺靖雄は、2010年から、一般財団法人「日本歌手協会」代表理事に就任しており、杉良太郎らと共に、世の中への影響力を持つ歌手たちを率いて社会貢献に役立てる活動を行ってきました。2011年の東日本大震災の時には、すべての主催イベントをチャリティ活動に充て、2016年だけでも、熊本地震のボランティが活動や、「知って、肝炎プロジェクトミーティング」参画など、その足を止めることはありません。
こうした活動には、田辺靖雄らが築いてきた日本の歌謡曲文化の重みすら感じさせられます。それに反するかのように、近年は歌番組も減少傾向にある上、若者の支持層を持たない演歌歌謡曲は、衰退の一途にあります。2016年3月には、各党の国会議員80名からなる「演歌歌謡曲を応援する国会議員の会」が発足し、出席した田辺靖雄や杉良太郎が、消えゆく日本文化の活性化を訴えました。
現在のJ-POP界があるのは、間違いなく田辺靖雄らが築いた日本歌謡曲の歴史あってこそであり、世界に誇れる独自の文化です。すべからく、国を挙げて守っていくべきでしょう。