2019年2月26日 更新
フレデリック・ショパンの生涯!薄命のピアノの詩人が遺した代表作は?
フレデリック・ショパンの生涯!病気に苦しみ続けた薄命の天才
フレデリック・フランソワ・ショパンは、1810年(あるいは1809年)に生まれたポーランドの作曲家かつピアニストです。「別れの曲」や「子犬のワルツ」など、現代でも人気の高い音楽家です。祖国ポーランドへの愛国心が強いことでも知られ、主な活躍地であるフランスでも、その精神は失われませんでした。
フレデリック・ショパンは、ワルシャワ公国のショパン夫妻のもとに、2人目の子供として生まれます。父のニコラ・ショパンも音楽家であり、夫婦で寄宿学校を営んでいました。その寄宿学校に、教師として招かれていた、作曲家でありピアノやヴァイオリンの演奏も行うジヴニィが、少年フレデリック・ショパンの最初の先生となります。6歳から彼の指導を受け、7歳で、現存する最初の作品「ポロネーズ ト短調」を作曲するなど、フレデリック・ショパンの音楽的才能には目を見張るものがありました。
早くもはじめての公開演奏を行ったのは8歳です。この演奏で、少年フレデリック・ショパンは大人気となり、11歳でワルシャワを訪れていたロシア皇帝のために御前演奏をこなします。見る見るうちに、師のジヴヌィを追い越したフレデリック・ショパン。12歳になると、ワルシャワ国立劇場で首席指揮者を務め、ワルシャワ音楽院の楽長でもあったエルスネルから、対位法や和声学を学びます。
このエルスネルは、1823年から1829年にかけてショパンに音楽理論と作曲を教えた人物で、フレデリック・ショパンを「驚くべき才能、音楽の天才」と評しました。愛弟子フレデリック・ショパンも、最初のソナタ作品を、師エルスネルに捧げています。15歳で行った演奏会での即興演奏でも聴衆を魅了し、「ワルシャワで最高のピアニスト」と絶賛されました。
16歳になったフレデリック・ショパンは、父の勧めでワルシャワ音楽院に入学し、エルスネルと本格的な師弟関係を結びます。エルスネルは、フレデリック・ショパンの才能を尊重し、権威主義的で時代遅れな規則で押さえつけるようなことはせずに、「彼自身の決めたやり方の通りに」させ、フレデリック・ショパンの音楽家としての成長を見守りました。19歳のフレデリック・ショパンは、こうしてワルシャワ音楽院を、主席で卒業します。
その後ウィーンを経てパリに渡ったフレデリック・ショパンは、22歳の時にパリで最初の演奏会を開き、大成功をおさめました。それは、当時大きな影響力をもっていた批評家フェティスをして、「史上かつてない途方もない独創的発想を、誰かを範とすることなく成し遂げた」と言わしめるほど。フレデリック・ショパンの演奏をきいたシューマンも、「諸君、帽子を脱ぎたまえ!天才だ」と述べたといいます。
レデリック・ショパンは、26歳の時、1人の女性に恋をしました。ポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵一家の娘であるマリア・ヴォンジスカという少女で、彼女の知性と芸術的才能に魅了されます。ところが、フレデリック・ショパンからマリアへの求婚は受け入れられるものの、フレデリック・ショパンの健康状態が悪いことと、マリアがまだ16歳であったことから、結婚は無期限延長状態に。
この頃、フレデリック・ショパンは、後の恋人であるジョルジュ・サンドとも出会っています。結局マリアとの婚約は破棄されてしまったフレデリック・ショパンは、ジョルジュ・サンドの思いもあって、28歳のときに彼女との交際を開始しました。
フレデリック・ショパンの健康状態はそれ以降も悪化を続け、37歳のときのジョルジュ・サンドとの別れをきっかけに、激しい鬱状態となります。その後は、スターリングが彼の生活費や演奏会の世話をし、生活費や医療費に苦しむフレデリック・ショパンを支え続けました。38歳で、パリにおける最後の演奏会が行われ、フレデリック・ショパンはついにその翌年、1849年10月17日に永眠します。
フレデリック・ショパンの死後には、デスマスクが作られ、数々の傑作を生み出した左手の型がとられました。また、フレデリック・ショパンの心臓は、遺言に従って取り出され、アルコールに漬けられて、祖国ポーランドの教会の柱の下におさめられています。
フレデリック・ショパン薄命のピアノの詩人が遺した代表作は?「子犬のワルツ」「別れの曲」などの名曲
フレデリック・ショパンは、「ピアノの詩人」といわれるように、さまざまな形式のピアノ音楽を残しました。若干39歳でこの世を去った薄命のピアノの詩人が遺した、美しい旋律と技巧による傑作は、それまでのピアノの表現様式を拡大し、新しい地平を切り開いたといわれています。現在も演奏会でよく耳にするフレデリック・ショパンの作品の中から、彼が遺した代表作をいくつか紹介しましょう。
フレデリック・ショパンがわずか7歳で作曲した「ポロネーズト短調」。現存する最も古い作品で、フレデリック・ショパンは、これを「ポロネーズ第11番」としています。少年がつくったこのポロネーズは、当時有名で人気のあった作曲家たちのポロネーズに匹敵するともいわれました。
「ワルツ変イ長調」(通称「別れのワルツ」)。1835年に、滞在先のドレスデンを去る朝に書かれた曲で、婚約者マリアとの婚約が解消され、別れを余儀なくされたフレデリック・ショパンの哀しみ、マリアへの思いが表現されています。
「子犬のワルツ」も有名なピアノ曲ですね。軽快なリズムと、可愛らしい旋律は、子犬が自分のしっぽを追いかけて回る姿を見て作られたといわれています。「子犬のワルツ」は、マリアとの婚約解消後、フレデリック・ショパンの憧れの女性であったポトツカ伯爵夫人に捧げられました。
「ポロネーズ第3番」(「軍隊ポロネーズ」)と、「ポロネーズ第6番」(「英雄ポロネーズ」)もご存じの方は多いでしょう。どちらも力強く威厳のある曲調で、ポーランドへの愛国心があらわれているとされます。
最後に、きっと聴いた誰もが「ああ、これ!」と言いたくなるに違いない、通称「別れの曲」。「12の練習曲」の4番目の曲です。1934年のドイツ映画「別れの曲」で主題となったことから、この通称が用いられるようになりました。ゆったりとした旋律が特徴で、フレデリック・ショパン自身も、「一生のうちに二度とこんな美しい旋律を見つけることはできないだろう」と語っているほどです。
フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの恋!ショパンコンクールの権威は?
フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの恋!第一印象は「不快な女」!
フレデリック・ショパンと10年にわたる交際関係を続けた恋人、ジョルジュ・サンド。男装の麗人としても知られ、フレデリック・ショパンの生涯の中でも、大きな存在感をもちました。
ジョルジュ・サンドは、1804年生まれ。フレデリック・ショパンより年上のフランスの女流作家であり、初期のフェミニストです。一度結婚して2人の子どもを産みますが、その後は別居し、多くの男性と恋愛経験をもっていました。
1836年、フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドは出会います。ショパンの友人であり、音楽仲間でもあったリストの愛人、ダグー伯爵夫人の主催するホームパーティでのことでした。はじめ、フレデリック・ショパンは、「なんて不快な女なんだ」と友人に語るなど、ジョルジュ・サンドに嫌悪感を抱いていたことが分かっています。
しかし、ジョルジュ・サンドのほうは、フレデリック・ショパンに惹かれて、共通の友人であるジグマワ伯爵に、32ページにもなる手紙を書きました。その中でジョルジュ・サンドは、フレデリック・ショパンへの強い恋心を語り、彼女の現在の交際関係について思い悩んでいることを明かします。また、フレデリック・ショパンとマリアの婚約関係についても心配しており、婚約関係が続いているのであれば邪魔をしたくないとも述べていたそうです。
結局、フレデリック・ショパンとマリアの婚約が破棄されたことで、1838年に、フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの交際が始まりました。2人とジョルジュ・サンドの子供たちとで、フレデリック・ショパンの快復を願ってマヨルカ島を訪れます。しかし、このマヨルカ島の天候は大荒れ。泣き面に蜂といわんばかりに宿泊施設も見つけられず、かつて修道院だった建物の軒で過ごすことになってしまいました。愛用のピアノも税関でひっかかって届かず、フレデリック・ショパンは、ぼろぼろのピアノで練習と作曲を行ったといいます。
翌1839年、ジョルジュ・サンドが、関税として300フランの支払いを承諾したことで、ようやく愛用のピアノが届きました。そこから5週間、フレデリック・ショパンは、精力的に作曲や改定稿の作成に励みます。
その後、フレデリック・ショパンの病状の悪化でマヨルカ島を去ることになり、バルセロナとマルセイユを経て、パリへと戻った2人は、すぐに同居を開始。1846年まで、冬はパリ、夏はジョルジュ・サンドの別荘で過ごすという生活が続きます。フレデリック・ショパンは、ジョルジュ・サンドの別荘で多くの作品を作曲し、彼女もその騒々しい様子を書き残しました。
しかし、フレデリック・ショパンの病状は悪化する一方。ジョルジュ・サンドは、恋人というよりは、ショパンの面倒をみる看護師のような立場になり、フレデリック・ショパンを「3番目の子供」とも表現しています。フレデリック・ショパンとの交友関係を続けながらも、苛立ちを隠せなくなってくるジョルジュ・サンド。
1847年に、小説「ルクレツィア・コロリアーニ」を出版しますが、主人公である裕福な女優と身体の弱い王子がジョルジュ・サンドとフレデリック・ショパンを指していることは明らかで、フレデリック・ショパンは、この内容に失望し、サンドとの和解も拒否。ジョルジュ・サンドも、フレデリック・ショパンが亡くなって2週間後に行われた葬儀に姿を見せることはありませんでした。
フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの交際をなれそめから見届けてきたヴォイチェフ・グジマワ伯爵は、「もしG.S.(ジョルジュ・サンド)に出会うという不幸に見舞われず、彼女にその生命を毒されなかったとしたら」彼はもっと長生きできたであろうと述べています。
フレデリック・ショパンの名を冠したショパンコンクールの権威は?若きピアニストたちの伝統ある登竜門
フレデリック・ショパンの名を冠したショパンコンクールは、世界中の若きピアニストたちにとって、とても大切なコンクール。正式名称をフレデリック・ショパン国際ピアノ・コンクールといい、世界三大コンクールといわれる、最も権威あるコンクールの1つです。ピアニストを目指す者にとって最高レベルの登竜門であるこの国際コンクールは、1927年に第1回が開催されました。
ショパンコンクールは、フレデリック・ショパンの故郷であるワルシャワで、5年に1回、彼の命日である10月17日の前後3週間にわたって開催され、ショパン作品の演奏によって競われます。出場資格は、16歳以上30歳以下。作曲家1名のみの作品で競われるコンクールは、現在非常に少なくなっており、これほど長く続いているコンクールとしても希有といわれています。
このショパンコンクールと日本の関わりは長く、入賞者にも、審査員にも、日本人の名前が見られます。1990年の第12回と、1995年の第13回では、第1位優勝者にふさわしい演奏がなかったということで優勝者が輩出されず、2000年の第14回で、15年ぶりに、中国のユンディ・リが優勝したことで注目を浴びました。2005年からはインターネットでの配信も開始されましたので、ポーランドを訪れなくても、コンクールの様子が分かるようになっています。
フレデリック・ショパンの音楽を映画で楽しむ!映画「天使にショパンの歌声を」は2017年1月に公開予定
フレデリック・ショパンの生涯や音楽は、映画でもしばしば題材に取り上げられます。薄命なピアノの詩人・ショパンの生涯を描いた伝記映画としては、1934年のドイツ映画「別れの曲」や、1945年のアメリカ映画「楽聖ショパン」が有名で、2002には、フレデリック・ショパンの祖国ポーランドでつくられた映画「ショパン 愛と哀しみの旋律」も公開されました。
これは、フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの恋愛を描いた作品で、彼らの10年におよぶ関係を追っています。ジョルジュ・サンドの2人の子供とフレデリック・ショパンの関係も描かれており、なぜ彼女が関係を続けられなくなったのかを知りたい方には興味深い作品でしょう。
2017年1月14日からは、フレデリック・ショパンの曲や、その他の有名なクラシックの名曲を用いた映画「天使にショパンの歌声を」が公開されます。本作は、1960年代のカナダ・ケベックの近代化を時代背景としており、2016年度のケベック映画賞で最多6部門を受賞しました。舞台は、音楽教育に力を入れる小さな寄宿学校。実力のある演奏家を育てる名門校でもありますが、採算の合わない運営のため、閉鎖の危機に直面します。
そこで、校長であるオーギュスティーヌは、音楽の力でこれに抵抗し、学校の存在と状況を世間に訴えようと決意。そんな小さな名門校に転校してきたのがアリスです。オーギュスティーヌは、アリスに、ピアニストとしての才能を見出しますが、アリスは孤独に心を閉ざしていました。音楽を通して描かれる彼女たちの成長と、奏でられる旋律、歌声は、人々の心をとらえることができるのでしょうか?
フレデリック・ショパンの「別れの曲」や、リストの「愛の夢」、モーツァルトやベートーヴェンのピアノソナタ、ヴィヴァルディの合唱曲「グローリア」など、一度は聴いたことのある名曲が流れる「天使にショパンの歌声を」。少女たちの物語とともに、それらをつくってきた音楽家たちの生涯に思いを馳せながら観ると、より深く楽しめそうです。フレデリック・ショパンも、天使と一緒に耳を傾けているかもしれないですね。
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