2017年3月7日 更新
小久保裕紀が侍ジャパン監督になったワケ!妻との離婚や脱税の真相は?
小久保裕紀が侍ジャパン監督になったワケは「王貞治のバックアップ」?
小久保裕紀は、WBCに出場する日本代表野球チーム、通称「侍ジャパン」の監督を務めています。現役時代は、ダイエーやソフトバンクで4番打者を務めたスラッガーで、卓越したリーダーシップでチームを牽引した経験の持ち主です。しかし、現役引退以降は、監督やコーチの経験は一切ありません。そのような人物がWBCで指揮を執るのは初めてのことです。
指導者歴皆無の小久保裕紀が、侍ジャパン監督就任に至った理由に真っ先に挙げられるのが「若返り」。前大会では、元広島監督の山本浩二が指揮を執りましたが、年齢と監督業のブランクがネックとなったため、思い切って若い人材に監督を任せることに。そして、「現役監督でない」こともあるでしょう。
第1回は王貞治、第2回は原辰徳が結果を出しましたが、彼らはいずれも当時現役監督。プロ野球開幕間近の時期に、現役監督がWBC監督を兼任することは、極めてハードだと問題視されていました。また、選りすぐりの選手たちをまとめるリーダーシップも求められます。
現役時代にチームリーダーとして活躍した小久保裕紀は、確かにこれらの条件を満たしていますが、条件を満たせそうな候補者は他にもいそうなもの。それだけが監督就任のワケとは思えません。有力視されているさらなる理由は、「王貞治がバックアップしている」です。
王貞治が、ダイエー、ソフトバンク監督時代に手塩にかけたのが小久保裕紀。王貞治には、WBC第1回大会で、代表監督として日本代表を優勝に導いた輝かしい実績がありますし、何といっても、「世界の王」の名声は最強ですから、これ以上のバックアップはないでしょう。
侍ジャパンチーム強化はもちろんのことですが、小久保裕紀の監督修業という側面もあると考えられます。WBCは、短期決戦の国際試合とあって、公式戦にはない展開も予測され、それだけ多くの決断が求められます。得がたい経験を積むことで、指導者への道を進ませるというのがもっぱらの見方です。
小久保裕紀、脱税主導人物は恩師からの紹介だった!妻との離婚の真相はたび重なる女性問題?
将来の指導者として嘱望される小久保裕紀ですが、輝かしいキャリアの中には、汚点というべき不祥事も存在しています。それは、脱税事件と、妻との離婚問題です。特に脱税事件は、世間を騒がせ、大問題に発展しました。1997年11月、名古屋地検特捜部が、1000万円を超える脱税をしたとして、5球団10選手を在宅起訴。そのメンバーの中には、当時ダイエーの現役選手だった小久保裕紀も含まれていました。
さらに5球団の9選手と球団コーチが所得隠しをしていた事実も公表され、追徴課税されています。調査の結果、名古屋市の経営コンサルタントが、複数のプロ野球選手に「脱税指南」をしていたことが明るみに。それは、ありもしない経費や顧問料を支払ったことにして、数百万円から数千万円の所得を隠すという手口でした。小久保裕紀は、脱税額が3000万円近くに上っただけでなく、チームの同僚への紹介料100万円も受け取り、この事件の主犯格ともみなされています。
刑罰処分は、懲役1年(執行猶予2年)罰金700万円。コミッショナーからは、1998年開幕から8週間の出場停止と制裁金400万円の処分を受け、「脱税王」とまで呼ばれるほどイメージはガタ落ちでした。「脱税」を主導した人物は、リトルリーグ時代の恩師から紹介されたという背景があったようですが、「少しヤバイ」と思いながらも脱税に走った小久保裕紀の甘さは、反省すべき点です。
甘さといえば、妻との離婚問題にも彼の甘さが見られます。1995年に4歳年上の女性と結婚し、1男1女の子供をもうけながら、2008年に離婚。離婚に至った原因は、小久保裕紀の女性問題がたび重なったためだと伝えられています。相手は地方局の女性アナウンサーで、同棲状態にあると週刊誌で報じられました。
他の女性と交際していた形跡もあり、それが本当ならば、離婚に至ったのも当然でしょう。野球ではリーダーシップを発揮するなど、好感度も高かった小久保裕紀ですが、こと私生活での脇の甘さは問題と言えます。
小久保裕紀の現役時代の通算成績!監督采配には無能評価?
小久保裕紀、2年目に本塁打王を獲得した現役時代!通算2000本安打を達成!
小久保裕紀のプロ通算成績は、実働18年間で、2057試合出場7474打数2041安打413本塁打1304打点、打率2割7分3厘。本塁打王、打点王タイトルを1回ずつ獲得し、ベストナインとゴールデングラブ賞表彰は各3回(うち2回はファースト、残る1回はセカンド)です。
1971年10月8日、和歌山県和歌山市出身の45歳。身長182cm、体重87kgで、右投げ右打ちです。和歌山県立星林高校を経て、青山学院大学へ進学した小久保裕紀。東都大学リーグ通算成績は、40試合に出場して、打率2割9分1厘、8本塁打23打点。1992年バルセロナオリンピックでは、野球日本代表に唯一大学生で選出され、銅メダル獲得に貢献しました。
1993年には、主将として、青山学院大学を初の大学野球日本一に導きます。1993年ドラフト会議で、ダイエーから2位指名を受け入団し、チームを背負う中心打者に成長していきます。1995年には、2年目にして、打率2割8分6厘28本塁打76打点の成績で本塁打王に輝きました。
このシーズンは、師と仰ぐ王貞治が監督に就任し、オフにハワイ・ウインターリーグで経験を積んだ成果もあって、著しい成長を見せています。1997年には、打率3割2厘36本塁打114打点の成績で、打点王タイトル獲得。しかし、翌シーズンは、脱税事件による出場停止に加え、右肩の重傷と、わずか17試合出場に終わります。1999年はチーム日本一、2000年はリーグ優勝に、それぞれ4番打者として貢献。
2003年に、オープン戦で右ひざ靭帯断裂などの重傷を負い、完治6カ月と診断され、シーズンを棒に振ります。そして……復活を目指していたオフ中に、巨人へ無償での電撃トレード。これは、チームメイトやファンのみならず、球界にも衝撃を与える謎のトレードでした。
しかし、気を取り直した小久保裕紀は、右バッターとしては巨人初の41本塁打を記録します。そして2006年オフに、FA権を行使して親会社がソフトバンクに変わっていた古巣へ復帰。チャンスに強い打撃でチームに貢献しました。2011年にはチームの日本一奪回に貢献し、40歳1カ月という史上最高齢の日本シリーズMVPに輝きます。2012年は2000安打達成に漕ぎつけますが、椎間板ヘルニアなどに苦しみ、同年限りで現役引退を表明しました。
クライマックスシリーズでは北海道日本ハムに敗れ、日本シリーズでの花道を飾ることはなりませんでしたが、引退後は野球評論家として活動し、2013年10月から侍ジャパン監督に就任しています。2017年、大一番に臨みます。
小久保裕紀、プレミア12の継投ミスで監督采配「無能」とバッシング!メンバー選考でも疑問の声が!
来るWBC大会で、日の丸を背負った勝負に臨む小久保裕紀。しかし、優勝を期待されるはずの采配の評価は芳しくありません。一向にパッとせず、「無能」「素人」などとこき下ろされる有様です。2015年のプレミア12では、致命的な投手継投ミスを露呈してしまった小久保裕紀。韓国戦で絶好調の大谷翔平を7回で降板させ、その後の継投に失敗。9回に投手が炎上して、痛恨の逆転負けを喫しました。
勝てる試合を自ら落とした采配には、疑問や非難が集中し、「無能采配」とバッシングを浴びました。さらに、強化試合メンバー選考でも、采配への疑念は膨れ上がるばかり。「外野手が4人しかいない」「捕手は守備がイマイチなうえ、打撃も微妙」「短期決戦だからリリーフ専任の投手が必要なのでは?」「成績が良くないのに名前で選出されている」などと非難が集まっています。
とはいえ、今回のWBCの戦力面には同情すべき点もあります。日本人メジャーリーガー投手の不参加に加え、大黒柱として期待が集まっていた大谷翔平が参加断念を表明したことで、さらにハンディがつくことになりました。しかし、言い訳は許されません。ここはひとつ腹をくくって奮起あるのみ。ベストオーダーで試合をものにして、「無能」の評価を返上して欲しいものです。
小久保裕紀、弟への嫉妬やピッチャー断念、その野球人生は挫折の連続だった!
これからWBC本番に臨もうとする侍ジャパンは、過去2度の優勝経験から、当然のごとく結果が求められますが、状況はそれほど甘くはありません。しかも、国際試合であるがゆえに、敗れたときは情け容赦のないバッシングが降りかかります。好待遇でもなく、いわば「火中の栗を拾う」役割と知りつつ、代表監督の重責を担った小久保裕紀。
史上最年少45歳にして侍ジャパンの指揮を執る彼は、とんとん拍子で球界のスラッガーに上り詰めたと思われがちですが、決してそうではありません。著書「一瞬に生きる」では、挫折の連続の人生だったことをさらけ出しています。幼い頃から野球好きだった小久保裕紀は、中学時代はピッチャーとしてプレー。
しかし、高校進学にあたって、名門・智弁和歌山高校のセレクションで、「野手としてなら合格だがピッチャーとしては不合格」と通知を受けて愕然とします。ピッチャーへのこだわりを捨てきれなかった小久保裕紀は、結局、県立星林高校へ入学する道を選びました。
しかし、2歳年下の弟は、智弁和歌山のエースとして甲子園に出場。これは、小久保裕紀にとってかなり屈辱的だったようで、嫉妬心を燃やしたと打ち明けています。青山学院大学へ進学したものの、デビュー戦では1/3回で4失点と乱調。追い打ちをかけるように、駒沢大のエース若田部健一に特大アーチを浴び、ついにピッチャーを断念します。
のちに福岡ダイエーでチームメイトとなる2人ですが、大学時代にこのような因縁があったというのも興味深いですね。弟に嫉妬し、投手を断念するなどの挫折を乗り越えて積み重ねた現役人生も、2012年でピリオドを打ちました。そして、現在は、侍ジャパン監督として2大会ぶりの優勝を目指して、宮崎で合宿中です。相変わらず采配を無能呼ばわりする声が後を絶ちませんが、挫折を乗り越えて成果を出してきた現役時代のように、最高の結果を出すことで雑音をシャットアウトして欲しいものです。