中村征夫が水中写真を撮り続けるワケ!出身地やプロフィールは?
中村征夫が自ら海にもぐり水中写真を撮り続けるワケ!
中村征夫(なかむらいくお)は、日本における水中写真家の第一人者。自ら海にもぐり、逞しく生きる海中の生物をとらえた写真は、時に力強く、時に美しく人々の心をとらえます。それは、単に海中の生物の真の姿をとらえるだけでなく、海に囲まれて生きる人間が海と共生する営みをもとらえているから。
水中写真を撮影し続ける中で、海と人間の深いかかわりや、海の生物たちの尊さを深く実感したという中村征夫。水中写真を通じて環境保全を訴える活動も続けていますが、それこそが中村征夫が水中写真を撮り続けるワケのようです。
中村征夫は独学でカメラマンに!出身地やプロフィールは?
中村征夫は、1945年7月1日生まれの71歳。出身地は秋田県で、テレビや講演会でみせる、秋田弁なまりでユーモアたっぷりな話し方が魅力的です。中村征夫のプロフィールをたどってみると、秋田県にある秋田市立高等学校(現在の秋田県立秋田中央高等学校)を卒業後は、手に職をつけるため上京し、石丸電気に就職しますが1年で退職。20歳の頃、休日に出かけた海で水中撮影するダイバーたちと出会い、水中写真を志します。
職を転々としながらも独学で技術を習得した中村征夫は、1988年に、東京湾を10年かけて撮影した「全・東京湾」と、海の生物を斬新なアングルでとらえた「海中顔面博覧会」で木村伊兵衛写真賞を受賞。人気写真家の仲間入りを果たしました。
中村征夫に大津波に襲われた過去!おすすめ写真集は?
中村征夫が九死に一生を得た経験!大津波に襲われた過去があった!
20歳の頃から海中を撮り続けてきた中村征夫は、ホームグラウンドともいえる海で九死に一生を得る経験をしたことがあります。1993年、北海道の奥尻島を、撮影で単身訪れていた中村征夫は、北海道南西沖地震を経験。大津波がくることを知り、裸足のまま高台へと逃げ、後ろに迫りくる高波からギリギリで逃れることができました。
しかし、集落の多くの人が命を落としたといいます。翌日、機材も装備もすべてなくした中村征夫は、友人から借りたカメラで津波の被害を伝える写真を撮影。それらは全世界に配信されました。
中村征夫の写真は美しいだけではない!海の現実を写すおすすめ写真集は?
中村征夫を一躍有名にした写真集といえば、なんといっても「全・東京湾」です。10年間にわたって東京湾を撮り続けたこの写真集は、当時は死んだ海と思われていた東京湾で逞しくいきる海中の生物をとらえると同時に、東京湾をとりまく環境破壊のルポタージュとしても優れています。
また、2006年に土門拳賞を受賞した写真集「海中2万7000時間の旅」は、40年間の写真家としての歩みをまとめた集大成的な作品。美しい海の生物の姿もあれば、中村征夫の独特なアングルからとらえたユニークなものもあります。また、環境汚染のために変わっていく海の現実もとらえられておりおすすめです。
中村往夫が独学で水中写真家になれたわけ!その道を決定づけたと運命とは?
水中写真の第一人者として、長く活躍してきた中村征夫。写真展を開けば、長蛇の列ができる人気写真家ですが、そのプロフィールを見ても分かる通り、彼の写真の技術は、全くの独学によるものです。学校で専門的な教育を受けたわけでも、誰かに師事して教えをうけたわけでもありません。
中村征夫のダイビングと写真との出会いは20歳の頃。休日に出かけた海で、カメラをさげたダイバーたちを見かけた中村征夫は、わけもなくドキドキしたといいます。ほとばしる想いのままに、初対面のダイバーたちに質問し、スキューバダイビングや、水中写真について教えてもらいながら、「ひょっとしたら、俺が一生をかけてやりたいことって、これだったのかな?」と感じたとか。
まさに中村征夫の運命を決定づけた出来事でした。ここから、わずかな貯金をはたいてカメラや装備を揃え、休日ごとに海で写真を撮る生活が始まります。ダイビングも、写真も全くの素人だった中村征夫は、最初は失敗を繰り返していました。それでも、失敗と勉強を重ね、少しずつ技術を磨き、写真コンテストで入賞することも増えていきます。1989年になると、水中撮影プロダクションが日本初のダイビング雑誌の創刊したのを契機に、プロカメラマンとして入社。しかし、まだまだ雑誌は創刊したばかりで知名度もなかったため、カメラマンとしてだけでなく、営業等さまざまな業務をこなすハードな日々だったそうです。
そんな中、中村征夫は大きなチャンスをつかみます。それは、朝日新聞から舞い込んだ、奥多摩湖の写真撮影の依頼でした。依頼内容は、行方不明になった家族の車が奥多摩湖に沈んでいるらしいから、湖中に沈む車を撮影してほしいというもの。ヘドロに足をとられ、視界も悪い最悪の状況の中、中村征夫のカメラは見事に水中の車をとらえます。その結果、写真は朝日新聞の紙面を飾り、その報道はスクープとなりました。
このスクープを契機に、中村往夫は、7年勤務した会社をやめて独立し、31歳で、フリーカメラマンとしての活動を開始します。とはいえ、活動が軌道にのるまでは苦労が多く、2年ほどは学校撮影の仕事で生計をたてていました。そうして独立から10年ほどたった頃、ライフワークとして取り続けていた東京湾の写真「全・東京湾」と「海中顔面博覧会」で写真界の芥川賞ともいわれる木村伊兵衛写真賞を受賞したのです。
その後も海を撮り続けていく中で、1993年には、中村征夫に自身の仕事について決意を新たにさせられる経験をします。それが、北海道の奥尻島で経験した大津波でした。200人もの集落の人々が命を落とすという現実を前に、なぜ旅人にすぎない自分が生き残ったのかを考えざるをえなかったという中村征夫。一度はこの仕事をやめようかとも思いつめましたが、「海は、時には暴れて人々にこういう悲しい思いもさせる。
これも自然の力、姿なんだ。そして今、この海がどうなっているのか、きちんと伝えよう」と考えるようになりました。そうした想いから、自らと海との関わりを見つめ直した中村征夫は、写真家としての活動とともに、海の現状を訴える講演会等も熱心に行っています。中村征夫が水中写真をやめずに、撮り続けている背景には、大きな運命のようなものを感じずにはいられません。