「7人のシェイクスピア」の主人公はあの天才劇作家!あらすじネタバレ
「7人のシェイクスピア」主人公はいかにして天才劇作家となったのか?あらすじネタバレ!
「7人のシェイクスピア」は、「ビッグコミックスピリッツ」に連載され、「第一部:完」となった歴史漫画です。作者は、「ゴリラーマン」や「BECK」で知られる人気漫画家のハロルド作石。実在した天才劇作家シェイクスピアを物語の主人公にした「7人のシェイクスピア」は、ハロルド作石にとって初となる歴史作品であるだけでなく、小学館の漫画誌で初となる連載作品です。
「7人のシェイクスピア」で描かれるのは、田舎出身で、どの程度の教育を受けたかも定かではないにもかかわらず世界を魅了する天才劇作家となった主人公シェイクスピアが、いかにしてその才能を花開かせたか。「7人のシェイクスピア」のシェイクスピア(愛称はウィル、作品中では「ランス・カーター」と名を変える)を取り巻く登場人物の中でカギとなるのは、リーという少女。
ランカシャーのチャイナタウンで煉瓦職人の娘として育ったリーには不思議な予知能力があり、そのことからさまざまなトラブルに巻き込まれ、周りから迫害を受けて生きてきました。その後、リーは、豪雨により、川に流されたところをシェイクスピアとその親友ジョン・クームに助けられます。この少女リーから紡ぎだされる美しい詩の数々が、シェイクスピアを演劇の世界へと誘っていきます。
「7人のシェイクスピア」の主人公は実在した天才劇作家!謎に包まれたプロフィールに迫る!!
ハロルド作石が描く漫画「7人のシェイクスピア」の主人公シェイクスピアのモデルは、実在した劇作家ウィリアム・シェイクスピアです。1564年、イングランド王国のストラトフォード・アポン・エイヴォンに生まれました。正確な生年月日は不明ですが、1564年4月26日に洗礼を受けたと伝えられています。
シェイクスピアは、引退したとされる1612年頃までに、四大悲劇「ハムレット」「マクベス」「オセロ」「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」や「ヴェニスの商人」「真夏の夜の夢」「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残しました。父親が町の名士であったことから、それなりの教育は受けてきたであろうと言われていますが、在籍していたとされる「エドワード六世校」の学籍簿はなくなってしまったため、確証はないのも事実です。
やがて、演劇を好んでいたエリザベス一世の統治のもと、自ら俳優として舞台に立ちながら、劇作家としても精力的に活動していったと伝えられています。1598年頃からは、それまで匿名としていたタイトルページに、著者名としてシェイクスピアの名前が記されるようになりました。それは、「シェイクスピア」の名前がセールスポイントになるほど、当時の人気が高かったからです。
「7人のシェイクスピア」の「失われた時代」!作風は?
「7人のシェイクスピア」のシェイクスピアの人生における空白の7年間「失われた時代」って?
ハロルド作石漫画「7人のシェイクスピア」の主人公のモデルとなったシェイクスピアには、文献や記録に残っていない年月があります。それは、1585年から1592年頃までです。1582年11月29日に、生涯の妻アン・ハサウェイと結婚後、1585年に双子が誕生しているシェイクスピア。この1585年から、ロンドンの劇壇に現れる1592年頃までの7年間の記録はいっさい現存していないそうです。
そのため、この「失われた時代」に、シェイクスピアが何をしていたか、なぜロンドンへ移ったかなどは全く不明となっています。ちなみに、「失われた時代」の伝説としては、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「ロンドンの劇場主の馬の世話をしていた」など諸説あります。
しかしどれも証拠はなく、シェイクスピアの死後に広まった噂の域を出ません。唯一根拠があるとされるのは、シェイクスピアが「ランカシャーで教職についていた」という説です。これは、1985年にE・A・J・ホニグマンによって唱えられたもの。ホートン家の人物の遺書に、「同居しているウィリアム・シェイクシャフトの面倒を見てやってほしい」とあり、このウィリアム・シェイクシャフトこそシェイクスピアという結論に至ったと言います。しかし、当時のランカシャーで「シェイクシャフト」という姓はありふれているため、決定打には欠けると言えそうです。
「7人のシェイクスピア」シェイクスピアの天才劇作家としての作風の変化に迫る!!
ハロルド作石が描く漫画「7人のシェイクスピア」のモデルとなったシェイクスピアの作風は、20年ほどのキャリアの中で、大きな変化を見せています。シェイクスピアが劇作家としてデビューした1590年を皮切りに、当初は、「リチャード三世」「間違いの喜劇」「じゃじゃ馬ならし」「タイタス・アンドロニカス」などの史劇と喜劇が主流でした。
次に、1595年に発表した悲劇「ロミオとジュリエット」以降は、一層円熟味を増した喜劇揃いです。着眼点が意表を突いたものや、当時の社会の風刺も織り交ぜた色濃い喜劇となっています。代表作は、「真夏の夜の夢」「ヴェニスの商人」「お気に召すまま」「十二夜」。
それまでの喜劇色が影を潜め、1600年代初頭に登場するのが、天才劇作家シェイクスピアの「四大悲劇」といわれる「ハムレット」「マクベス」「オセロ」「リア王」。「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」のセリフで有名な「ハムレット」に見られるように、人間の葛藤を描くものが多くなりました。また、同時期に書いた「終わりよければ全てよし」「尺には尺を」などは、一見喜劇作品でありながらも、矛盾や人間心理を鋭く描写していて、悲劇作品に負けない暗さを併せ持っています。
このことから、19世紀以降「問題劇」と呼ばれるようになりました。やがて1610年以降になると、「ロマンス劇」と呼ばれる作品が多くなります。それが、「ペリクリーズ」「シンべリン」「冬物語」「テンペスト」などです。中でも「ペリクリーズ」は、天才劇作家シェイクスピアの初のロマンス劇とされている作品。人間関係があまりに非現実的で、込み入りすぎていたため、長らく軽視されてきましたが、20世紀以後には、再評価を受けるようになりました。
「7人のシェイクスピア」が新章へ!シェイクスピアも歴史も親しみやすいハロルド作石のこだわりとは!?
2010~2011年にかけて連載され、「第一部・完」となっていたハロルド作石漫画「7人のシェイクスピア」が、歳月を経て、「7人のシェイクスピア NON SANZ DROICT」として新章へ突入しました。「7人のシェイクスピア」の連載再開は、「週刊ヤングマガジン」からとなっています。
「7人のシェイクスピア NON SANZ DROICT」には、主要登場人物7人が、お互いの才能を持ち寄り、芝居の脚本を書いていくシーンがあります。ここで読み手として思い出されるのが、「シェイクスピア別人説」。法律や古典の深い知識がなければ書けない作品もあるため、シェイクスピアが1人で全作品を書き上げたとすることへの不自然さは、かねてより研究者たちの議論の的になってきました。
そこで、言われ始めたのが「『シェイクスピア』とは、一座の劇作家たちが使い回していたペンネームではないか?」というものです。しかし、真の英文学者は、別人説をまともに取り上げないという話も。国内きってのシェイクスピア研究家として知られる小田島雄志も、「シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ」と、別人説を一蹴しています。
とはいえ、シェイクスピアには、幼少時代に父親が獲得できなかった紋章にこだわり、成功した後、経済的な力で紋章を獲得し、ジェントルマンの地位を得たという史実もあります。小田島雄志の意図する「エリート意識」はなかったにしても、別人説を否定するにはやや説得材料が少ない印象は否めません。
2016年になると、方言や言語表現の解析により、「ヘンリー六世」を含む17作品が、クリストファー・マーロウとの共作であることが明らかにもなっています。今なお謎の多いシェイクスピア。難しい史実の解析は研究者に任せて、市井の文学ファンは、ハロルド作石の描く漫画「7人のシェイクスピア」で、その熱い青春時代を一緒に駆け抜けてみるのもいいのではないでしょうか。