中山雅史 これまでの年俸、成績推移は?現役復帰はホント?!
中山雅史 年棒・成績推移!JFLから唯一つの日本代表から、ドーハの悲劇、ワールドカップ日本人本戦初得点、引退まで!
中山雅史の年俸・成績推移ですが、プロとしてのスタートは、1990年にジュビロ磐田の前身であるヤマハ発動機のサッカー部。2002年から2004年までは年俸8500万円、2005年と2006年が8300万円、2007年は5500万円、2008年は4400万円で2009年は2200万円、2010年にコンサドーレ札幌に移籍し2011年まで750万円、2012年は1000万円でした。
成績は1991年にJリーグが発足しますが、中山雅史の所属チームは、開幕10チームから落選し、JFLからのスタートになってしまいました。1990年から1993年までの成績は65試合に出場し、50得点という成績を叩き出すなどストライカーとしての才能を発揮。JFLから唯一日本代表に選ばれるなど、サッカー関係者からも注目が高い選手でした。
1994年にアメリカワールドカップ予選に日本代表として選ばれ、最終予選では徐々にスタメンを獲得し、まさに獅子奮迅と言っていい活躍を見せます。その中で、ゴン中山のキャラクターが出来上がり、マスコミにも注目されていきます。
そしてアジア最終予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点ゴールを決められ、ワールドカップ出場を逃した「ドーハの悲劇」が起きた瞬間、それまで得点を決めベンチに下がっていた中山雅史はくずおれた姿は、今もサッカーファンの中で鮮明に記憶に残っています。そんな中山雅史にも嬉しいことがあり、ジュビロ磐田がJFLで2位になり、1年遅れで悲願のJリーグ入りを果たしました。
1995年にはジュビロ磐田にトトの愛称で親しまれ、FCメッシーナ時代には61得点を一年間で叩きだした元イタリア代表のサルヴァトーレ・スキラッチが入団すると、中山雅史のストライカーとしての才能が刺激され、45試合に出場し18得点を上げます。1996年は怪我のため、27試合に出場するも9得点と落ち込みましたが、1997年には当時現役のブラジル代表選手だった鬼軍曹の異名をもつドゥンガがジュビロ磐田に移籍。
すると、中山雅史は大いに刺激を受け、ボールを持っていない時の動きの質を学び、ストライカーとして覚醒します。そして山本昌邦とのトレーニングによって身体面のコンディションも確実なものとし、27試合18得点と一部リーグで驚異の数字を叩き出します。その結果、Jリーグ初のハットトリックを記録、ステージ優勝に貢献しました。もちろん日本代表にも再選出され、2試合2得点。その内の1得点は1998年に行われるフランスワールドカップの、本大会初出場を決めるイラン戦で、日本を歓喜の渦へと導きました。
また、鹿島アントラーズとのJリーグチャンピオンシップでもゴールを挙げてMVP。ジュビロ磐田のリーグ初制覇に貢献、中山雅史の絶頂期に差し掛かります。1998年フランスワールドカップには日本代表として出場し、ジャマイカ戦で日本代表としても日本人としても初めてワールドカップでゴールを決めた男になりました。
この試合では、ゴール後に足を骨折したことを隠して試合終了まで走り続けたことは、サッカーファンに日本代表の誇りと魂の象徴として今も心に残っています。Jリーグでも27試合に出場し36得点とストライカーとして中山雅史の右に出るものは無く、現在もリーグ戦最多得点記録として破られていません。この年は得点王、MVP獲得など中山雅史の年といっても過言ではない年でした。
1999年にはアルゼンチン合宿中に右眼底を骨折し、失明寸前の重傷を負いながらも23試合に出場し6得点。2000年には前期では怪我の影響で不調でしたが後期から輝きを取り戻し、29試合で20得点J通算100ゴールを達成し、Jリーグ史上初の2回目の得点王を獲得しました。
2001年には勢いそのままに動くもマークがきつくなり30試合出場16得点にとどまります。2002年には高原直泰とコンビを組み、ジュビロ磐田完全優勝に貢献し、29試合出場16得点。2003年は恥骨結合炎が再発し12試合3得点、2004年も怪我の影響で19試合出場3得点となってしまいます。
しかし、2005年にはJリーグ15人目の300試合出場を達成し29試合出場6得点に。2006年は13試合出場1得点、2007年は15試合出場1得点、2008年16試合出場1得点、2009年には1試合しか出場の機会がなく15年連続J1ゴールが途絶えてしまいます。11月にはジュビロ磐田から戦力外通告を受けますが、中山雅史は現役に拘る姿勢を示し、19年在籍したジュビロ磐田を退団。
2010年にはJ2のコンサドーレ札幌に移籍します。しかし度重なる無理を押しての出場による怪我の影響で12試合出場するも得点なし。2011年は出場機会がなく、2012年には引退試合に1試合出場し、中山雅史は選手生活を引退しました。
中山雅史 現役復帰はホント?!縁が呼んだ練習参加!
2015年9月4日に2012年に引退した中山雅史が、JFLの静岡県沼津市にあるアスルクラロ沼津に入団し復帰する可能性が浮上したというニュースが出ました。中山雅史が指導者ライセンス取得に向けてトレーニングを行っていたことや、アスルクラロ沼津の運営母体で、ジュビロ磐田時代の恩師でもある山本昌邦が役員を務めていたことが縁で実現するのでは、と言われています。
現役復帰について「体もしまっていたし、走り方も走るスピードも年々良くなっているように感じた。札幌のころよりも向上している感じだった」と三浦和良もゴン中山の復活を歓迎。今も現役を続けるカズが言うのですから間違いなく調子は上がってきているのでしょう。
最後に「僕にとっても刺激になる。最後まで頑張って欲しい」とエールを送っており、現役復帰の後押しをしています。ぜひ現役復帰をしてもらって、カズVSゴンの画をフィールド上でもう一度見たいですね!
中山雅史 ギネス記録!アツい名言集!嫁、子供の現在は?
中山雅史 ギネス記録!アツい名言集!サッカーを愛し紳士な名言の数々がアツい!
中山雅史のギネス記録は、1998年に行われた4月15日のセレッソ大阪戦と4月18日サンフレッチェ広島戦、4月25日アビスパ福岡戦、4月29日コンサドーレ札幌戦と4試合連続ハットトリックという偉業。そして2000年のアジアカップ予選ブルネイ戦での試合開始からわずか3分15秒でハットトリック達成という偉業の二つです。これを抜ける選手は、そう簡単には出てこないと思われます。
1998年のジュビロ磐田は、今までのJリーグクラブの中でも屈指の最強メンバーが揃っており、ミッドフィルダーに当時現役ブラジル代表の闘将ドゥンガを始め、藤田俊哉、福西崇史、名波浩という錚々たるメンツでした。敵将が可哀想にも思えるこのメンツと、絶頂期の中山雅史だからこそ成し得た4試合連続ハットトリックだとも言えますね。
そんな中山雅史、アツい名言集その①「サッカーがヘタクソだからじゃないですか?」。これは記者からの質問で貴方が皆に愛される理由はというものに対して答えた言葉です。中山雅史は楽しませるエンターティナーですが、サッカーに対してのコメントや考え方は実に真摯で的確なのは知る人ぞ知るところ。歴代最多得点を上げた自分をヘタクソと言ってしまうほど、サッカーを愛して止まない人なのです。
中山雅史アツい名言その②「自分は人と違うプレーをする。そうしないと自分の居場所はない」これをキチンと考えている選手が今のJリーグにどれだけいるでしょうか。これを考えられる人は、海外に移籍できるでしょう。中山雅史が、その実力で、世界を驚かせたことも一つの要因となって、日本人選手の海外移籍の道は開きました。もし中山雅史の一つ前の世代でそれが出来ていれば……。そういう意味でもドーハの悲劇は今後も語られていくでしょう。
まだまだ続く、中山雅史アツい名言その③「すべてのプレーを偶然では無く必然にしたい」。ひたむきにプレーし、ある時は紙面にラッキーゴールと書かれる裏で、中山雅史は真摯にゴールへ挑んでいたというのが分かる言葉です。
最後に、中山雅史アツい名言その④「ゴールに向かって蹴るだけですね。狙った云々じゃないです」これも今の選手に聞いて欲しい言葉ですね。中村俊輔ほどの技術と考えがあって狙うならまだしも、そうでもない選手が小奇麗なゴールを狙おうとするからJリーグのレベルは低いままなのだと思います。
サッカーのゴールはバスケのゴールより広く作られています。ゴールに向かってしっかり蹴れば、入る確率は高いのです。皆さんも試合を見ていて、ゴールではなく、あさっての方向へ蹴っている選手をよく見ませんか?中山雅史の言葉を聞かせたいですね。
中山雅史 嫁、子供の現在は?娘さんは聡明かも!?
中山雅史の嫁はタレントの生田智子で48歳、中山雅史の一つ年上の姐さん女房です。1996年に二人は結婚し、2004年に、こはるちゃんという女の子が誕生しています。コンサドーレ札幌に移籍し、怪我に苦しみ、試合にも満足に出場できない状況に苦しんでいた中山雅史に、引退を勧めたのも中山雅史の嫁である生田智子だったようです。
現役に未練を残しつつも家族のため、何より自分の体の状態を冷静に考え、愛するサッカー選手という職業を引退しました。日本テレビ系列のバラエティ番組「おしゃれイズム」に中山雅史と嫁の生田智子が出演した際に、引退後やっと家族3人で住めるようになったそうで、子供はそれをとても喜んでいると語っていました。
中山雅史の子供、こはるちゃんは中々聡明な子供のようで、サッカー選手のパパと比べて今のパパはどうかという質問に対し、少し元気がなくなったと答えています。父親・中山雅史の引退を友達に言われると、一線をしりぞいただけと切り返すというやりとりもあったそうです。さすが中山雅史の子供です。2世タレントにならなくとも、父親の背中を見ながら自分らしく育っていきそうですね。
中山雅史の今後は!? コーチ、監督の経験を積んで日本代表監督で魅せて欲しい!
2015年9月5日、各メディアから「中山雅史JFLのアスルクラロ沼津でチーム練習に参加し、コンディションをチェックする」ということが報じられました。3年前に引退した日本人最強と言っても良いストライカーが帰ってくるとあって、当時のファンの方も何かが起こる気がしているのではないでしょうか。
中山雅史の今後についてですが、正直なところ、情熱大陸やサッカー雑誌のインタビューなどを見ているファンの方なら、このまま引退して、行く行くはジュビロ磐田で、日本代表で監督を務めて欲しいと言うのが本音ではないでしょうか。選手として中山雅史が引退した時に、会見を見て、一つの時代の終わりを感じました。
中山雅史の人を魅せる沸かせるプレーは、諸刃の剣。自身の体を傷めて、引き摺り、それでもなお前へというスタイルです。47歳の今、選手として帰ってくることは嬉しい反面、できれば新しい中山雅史を見たいという想いがあります。現役時代、最後まで中山雅史のプレーを貫いてくれました。
そして引退しても中山雅史の言動は、変わらず魅せてくれています。中山雅史であれば、選手であろうと、監督であろうと、魅せてくれるだろうと感じさせる稀有な人物。新たな伝説に向けて、立ち位置を変えて、その姿をピッチの上で魅せて欲しいと希望します。
特に日本代表の監督になってくれれば、現場はもちろん、世の中も盛り上がりますし、期待も寄せざるを得ない雰囲気になることでしょう。そのためには1日も早く、コーチやJFLの監督に就いて経験を重ね、パフォーマンスだけでなく、サッカー理論でも沸かせ魅せて欲しいものです。
中山雅史は人として輝いています。それは選手であってもなくても同じです。どうか今の輝きを自らの手で曇らせないよう、いつまでも多くの人の希星として輝き続けて欲しいですね。