弘田三枝子の顔がマイケルジャクソンに!?整形中毒や事件の闇
弘田三枝子は、60年代初頭、POPSの女王と呼ばれていた
引田三枝子は1947年生まれ、現在69歳になります。50年以上も前に、今で言うとAIやSuperflyの越智志帆のような圧倒的歌唱力を持った、まだ14歳の少女が「POPSの女王」として人気者となっていました。それこそが引田三枝子。「ヴァケイション」や「砂に消えた涙」など、洋楽のカバー曲で、次々とヒットを飛ばしていた弘田三枝子でしたが、時代はどんどんと変化していきます。
歌謡界はやがて和洋折衷、日本独自の歌謡曲が主流となり、弘田三枝子も何曲かオリジナル曲を出しますが、ヒットに恵まれず、いつしかテレビで見かけなくなりました。俳優にしろ、歌手にしろ、デビューしてからずっとスターであり続けることは、ほんとうに難しいことです。
弘田三枝子、「人形の家」で復活の陰に、極度のダイエットと驚きの美容整形
弘田三枝子は、しばらくヒット曲に恵まれなかったものの、1969年22歳の時、不死鳥のごとく甦ります。それも、これぞ歌謡バラードといえる「人形の家」という曲で。歌がヒットするだけでなく、人々を驚かせたのは彼女の変容ぶりでした。若さあふれる太めの体型は、極度のダイエットからか、ひどく痩せ、顔は愛嬌のある団子鼻の鼻筋が通り、目も見開いて明らかに整形したよう。
弘田三枝子の変身ぶりは、美しくなったというより、鬼気迫るものでした。弘田三枝子は続けて優れた曲を数枚出しますが、その変身を遂げた姿が、あまりにも強烈すぎ、再びテレビから姿を消してしまいます。その後は、アメリカでも暮らしていたという引田三枝子でしたが、つい最近、久々に「徹子の部屋」に出演しました。再び人々を驚かせたのは、実年齢69歳となった引田三枝子の、整形依存者特有のものと思われる表情がない顔。弘田三枝子を見ていると、スターで在り続けることの過酷な運命を感じずにはいられません。
弘田三枝子ヒット曲「人形の家」「燃える手」秘話!日本最高の歌唱力は今も健在か?
弘田三枝子「人形の家」の歌詞に隠された、戦争の怨念
「人形の家」以後、弘田三枝子の楽曲は「私が死んだら」「燃える手」など、数曲続けて、なかにし礼の作詩が続きます。なかにし礼は、最近がんの闘病で有名ですが、昭和を代表する作詩家の一人。悲惨な戦争体験や、女の情念といったものをバックボーンにした作詩家です。実は、この「人形の家」もまた、自身の満州からの引き上げ体験を元にして書かれた楽曲。
「人形の家」の歌詞について、なかにし礼は次のように語っています。「ちょっと聴きにはラブソングなんだけど、ちゃんと僕の刻印が施してある。あの「家」とは満州からの引き揚げ者の収容所であり、「人形」とは日本国政府から帰って来なくてもいいと言われた棄民のことなんだ」。
弘田三枝子は「人形の家」のヒットで、その後の歌手人生を狂わせた?
引田三枝子によって「人形の家」が世に出たのが、1969年。世はすでに戦争のことなどすっかり忘れた、昭和元禄と呼ばれた時代でした。「人形の家」は素晴らしい歌ではありましたが、底暗い歌詞、そして弘田三枝子の魔女のような容姿は、あまりにも時代に逆行していたようです。続く「燃える手」の評価も同様でした。
「人形の家」と同じく、なかにし礼が作詞した「燃える手」は、去りゆく恋人に、ろうそくに燃える自分の手が痛む間だけでもそばにいてほしいとすがる内容。ドラマチックとはいえ、世間の共感を得るには重すぎました。弘田三枝子は、やはりデビュー当時の飛び切りに明るいPOPSの王道を歩んだほうがよかったのではないでしょうか。弘田三枝子は「人形の家」という怨歌に、自らが呪われてしまったような気がしてなりません。
弘田三枝子、久々のテレビ出演「徹子の部屋」で、あわや放送事故?!
引田三枝子が、先日の「徹子の部屋」に出演した時の様子ですが、その顔は、美容整形を何度も重ねた人特有の表情のない顔で、昔から弘田三枝子を知っている人にとっては、かなりの衝撃だったことでしょう。しかし、引田三枝子本人は至って意気軒昂。トークの中で、弘田三枝子が、発声の練習法として取り入れている、ヨガ呼吸法「プラナヤーマ」を披露したのですが、それがまた異様な光景となってしまいました。
弘田三枝子はまず、身体をリラックスさせてから6秒カウントして息を吸うと、グッと身体に力を入れてうつむいてしまいます。さらに12秒たつと、彼女は低く「グッ」と唸り、また息を止めます。この間、画面上では、両手をやや広げて黙る、無表情な弘田三枝子と、それを無言で眺める黒柳徹子という、無音の2ショットが35秒近く。この時テレビを見た人が、この日の「徹子の部屋」を放送事故と思っても、不思議ではありませんでした。芸能界は、不思議な場所で、スターとして輝き続ける人だけでなく、元スターや、さまざまに異形の人々も存在します。
しかし、その存在は、スターとしてでは決してなく、賑やかしの道化として。本人が、スターであると思い込んでいる分、彼らに対して、ものの哀れを感じてしまう人も多いのではないでしょうか。弘田三枝子がスターとして光り輝いたのは、やはり、「ポップスの女王」と賞された十代の頃で、「人形の家」以後の弘田三枝子は、何かが違うような気がしてなりません。