織田信長の正室・濃姫の謎!名言からもらえる生きぬく力
織田信長の正室・濃姫の謎!実は結婚したという事実しか解明されていない!?
織田信長は、戦国時代という激動の時代を生きた人物。身分に関係なく、多くの人の心を惹きつけるカリスマ性と、大胆かつ巧妙な作戦で戦を有利に展開させる発想力を武器に、天下人となった戦国大名です。織田信長は、女性を高く評価していたためか、身の回りの女性に関する資料は数多く残されているそうですが、なぜか自身の正室に関しては、資料がほとんどなく、謎に包まれています。
織田信長の正室といえば「濃姫」。美濃を治めていた斎藤道三の娘で、天文18年(1549年)に嫁いだといわれていますが、実のところ、名前は謎とされています。「濃姫」という名前は「美濃から嫁いできた姫」ということで呼ばれるようになっただけで、本名は不明。「美濃国諸旧記」という書物には、「帰蝶」と記されているようですが、江戸時代に書かれたもののため、信憑性は低いとされています。
さらに織田信長と濃姫の間に子供がいたかどうかも不明。なんとも謎多き濃姫ですが、彼女の人柄を表す書物が、実は存在します。山科言継の「言継卿記」には、濃姫は、相手が織田信長であろうと言いたいことはきっちり言う芯の強い女性であったと記されているそうです。
織田信長の名言からもらえる人生を生きぬく力!いつの時代も大切な心構えは変わらない!
織田信長は、戦国時代において、革新的ともいえる戦術や政治を数多く展開させたことで有名です。そうして天下人まで上り詰めた織田信長の数々の名言は、現代にも通用する心構えを伝えてくれています。そんな織田信長の名言をいくつかご紹介しましょう。
「仕事は探してやるものだ。自分が創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは雑兵だ」。社会人として一歩踏み出したら、与えられた仕事をただこなすだけではなく、自分から率先して動き、功績を残していく必要があります。そうした心構えと行動が、自身のキャリアアップや、周りからの信用獲得に繋がります。
「攻撃を一点に集約せよ。無駄なことはするな」。やりたいことはたくさんあるかもしれませんが、一気にあれこれと取り組んでしまうと、どれも中途半端となり、満足のいく結果を得ることは難しいものです。「二兎追うものは一兎もえず」とも言いますが、やることは一つに絞り、集中的に取り組むべし、ということを表しています。
織田信長の名言には、人生を生きぬくための力強いメッセージがたくさん込められています。いつの時代も、人生において大切なことは変わらないのかもしれません。
織田信長に仕えた黒人とは?性格は残忍なばかりではなかった?
織田信長に仕えた黒人とは?大柄で剛力の忠義心の厚い人物!
織田信長は、身分を気にせず、有能だと判断した人材は、次々に部下として招き入れました。そうして家臣となった者の中には、なんと黒人の姿もあったとか。
織田信長の家臣となった黒人は、「弥助」という名の人物。アフリカ・モザンビーク出身で、元はイタリア人宣教師・ヴァリニャーノが、インドから連れてきた奴隷です。織田信長は、初めて見た黒人に興味を抱き、ヴァリニャーノに交渉して、その黒人を譲ってもらい、「弥助」という名前を付けて家臣として迎え入れました。最初、他の家臣たちは戸惑っていたようですが、すぐに打ち解けたそうです。
弥助は、身長190cmという大柄で、かなりの剛力の持ち主。忠義に厚く、織田信長も、弥助をとても信頼していました。1582年の本能寺の変では、織田信長の供をしていた弥助も、明智光秀の襲撃を受けました。しかし、明智光秀は「こいつは日本人ではなく、ただの動物で何の役にも立たない」と言って見逃したため、命は無事だったそうです。
その後は、南蛮寺に送られたそうですが、以後の消息は不明。有馬家に身を寄せたのではないかという説があるそうですが、この頃の日本には、すでに黒人が多数存在していたため、信憑性は低いそうです。
織田信長の性格は残忍なばかりではなかった?人への気配りを忘れない一面も!
織田信長の言葉として、もっとも有名かもしれない「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」。この言葉や、数々の戦で多くの命を奪ったことから、織田信長は、かなり短気で、残忍な性格であったと広く伝えられています。しかし、織田信長は残忍な面ばかりの人物ではなかったことが分かってきました。
織田信長には、身分を問わず、人を思いやる一面もあります。例えば、家がなく、貧しい暮らしをしている人々に遭遇した際は、受け入れて保護したことがあります。また、女性の存在を高く評価しており、羽柴秀吉が浮気して妻・ねねと夫婦喧嘩をした際、織田信長はねねに励ましの手紙を送り、夫婦の仲裁に一役買ったというエピソードもあるそうです。
短気と聞くと、器が小さいのではないかと思われがちですが、そんなことはありません。織田信長は、松永久秀に何度か裏切られたことがありますが、降伏してきた際はすんなりと許しています。案外と人を信用し、幾度も裏切られてきた織田信長。しかし、人を信じる心があったからこそ、織田信長に誠心・忠義を尽くす部下も数多くいたのではないでしょうか。
織田信長の家臣たちが大集結!安土城考古博物館で特別展「信長の家臣たち」が開催中!
織田信長は、生きているうちに「天下統一」という望みを果たすことはできなかったまでも、その礎を築くことに成功しました。自身の出身地である尾張をはじめ、美濃、伊勢、近江と、次々に勢力を広めていき、多くの有能な人材を味方に引き入れています。家臣として迎えた人材の分野は、軍事、内政、外交、文化と多岐にわたりますが、今、そんな織田信長の家臣たちが近江八幡に集結しているようです?!
滋賀県近江八幡市にある安土城考古博物館では、現在、特別展「信長の家臣たち」を開催中。本展示は、その名の通り、織田信長の家臣たちをクローズアップした企画展。織田信長が天下統一を目指して突き進むことができたのは、自身の尽力ももちろんのことですが、家臣たちの力もあってのことだということを忘れてはいけません。
本展示では、羽柴秀吉、柴田勝家、前田利家、丹波長秀、細川藤孝など、総勢50名の織田信長の家臣を取り上げ、彼らの働きについてはもちろん、追放や離反などのエピソードについても、肖像画や文書などの資料を元に紹介。さらに織田信長の人材登用・活用術と、その結末などについても言及しています。
多くの人材を招き入れ、組織を作り、一つの目標に向かって進んでいくことは簡単なことではありません。それぞれの人が持つ個性と能力を見定め、適材適所に配置しないと、軍事も政治も何事もスムーズには運ばないでしょう。人の上に立つ人間に必要なのは、「人を見る目」と「人を活かすこと」。
これは、今、企業でリーダーを務める人にも必要な能力といえるでしょう。織田信長がいかにして人を活かし、天下統一へと突き進んでいったのかを知ることは、これからのビジネスにも、教訓として生かせるのではないでしょうか。安土城考古博物館の特別展「信長の家臣たち」は、2016年6月5日まで開催しています。