石田三成の子孫は腹が弱い!?茶々との愛人関係の真実は?
石田三成の血脈断絶はうそ!子孫は腹が弱い!?
石田三成とは、有名な戦国武将。関ヶ原の戦いでは、豊臣方についていました。豊臣方が戦いに負けた時、石田三成をはじめ、中心的だった大名はみな処刑されたので、その血脈は途絶えてしまったと思っている方も多いようです。しかし、石田三成の子孫は、今も健在。石田家15代目当主の話によると、石田家4代目から武士を捨てて、庄屋として家督を継いでいったそうです。
養子などで家督を継いでいくため、他家の血と混じりやすい武士とは違い、庄屋になったからこそ、石田三成のDNDがそのまま受け継がれているとか。ただ、一番受け継ぎたくなかったことがひとつ。それは、石田家の男子はお腹が弱いということ。
石田三成には、関ヶ原の戦いでお腹を下していたというエピソードがあるらしく、実際、それが代々受け継がれているといいます。石田家では、お腹が弱いことを「三成腹」と呼んでいるそうです。
石田三成は茶々と愛人関係だったって、本当なの?
石田三成と茶々が愛人関係だったのではないかという話は、昔から、まことしやかに語られてきました。茶々が、豊臣秀吉の側室淀君ということは周知のことですが、なぜ、そのような噂が流れたのでしょうか?女好きで、正室以外にもたくさんの側室がいたといわれる豊臣秀吉ですが、子供を産んだのは茶々(淀君)一人。それが不自然だということで、豊臣秀頼はいったい誰の子なのか?との疑いが出ました。そこから派生したのが、豊臣秀吉の側近中の側近であった石田三成と茶々(淀君)の不倫説。豊臣秀頼の実の父親は、石田三成ではないのかといわれてきたのです。
石田三成と茶々(淀君)の愛人関係は、これまで大河ドラマなどでも描かれてきましたが、実際のところ、茶々(淀君)が豊臣秀頼をお腹に宿し出産した時期、石田三成は朝鮮出兵で不在であったことから、石田三成が豊臣秀頼の父であると考えるのは不可能です。また、豊臣秀吉に気に入られ、強い忠義心があった石田三成が、主君の側室とそのような関係になれるのかという道義的な見方もあります。江戸時代になってから、幕府の御用学者が、徳川家に敵対した石田三成と茶々(淀君)を貶めるために捏造した話ともいわれています。
まさに歴史はミステリーですね。
石田三成の名言が意外に人間らしい?墓の場所、最期の地は?
石田三成はプライドが高いエリート官僚タイプなのに、名言は意外と人間らしい?
石田三成は、戦いや外交に関して、あまり得意ではなかったといわれています。どちらかといえば、権力者をバックに才能を発揮する、官僚エリートタイプでした。自分は頭がいいというプライドもあったのでしょうか。時に人を見下すような態度を取ったため、嫌われていたのも確か。しかし、石田三成には、主君の恩義に報いようとする忠誠心から、他人の痛いところも突かなければならない時もあったようです。
石田三成の名言はいろいろ残されています。例えば、「戦死を好むのは匹夫である。将たるものは命の危険を逃れて、何度も戦いを重ねることこそ本意とするものだ」。これは、関ヶ原の戦いに負けて捕虜になり、自害しなかったことを罵られた時に石田三成が発した言葉です。匹夫というのは道理をわきまえない卑しい男という意味ですが、普通に考えれば、武士ならばここで切腹でしょう。
それを、上に立つ者は生き抜いて何度も挑戦するべきと言い切った石田三成。時代を見越した卓越したリーダー論ともとれますが、悪く考えれば、命を惜しがっただけともとれます。真意はどちらにあったのか気になるところですが、いずれにせよ、石田三成が人間的にも非常に興味深い人物であることは事実のようです。
石田三成の墓がある場所はどこ?どこで最期を遂げたのか?
石田三成の墓は、京都市紫野にある大徳寺三玄院にあります。
石田三成は、40歳の時に関ヶ原の戦いに敗れ、1人で伊吹山に落ち延びましたが、潜伏していた村で捕らえられました。その後、徳川家康の命によって、罪人として京の都を引き回しにされ、六条河原で処刑されています。
石田三成の遺体は、臨済宗大徳寺の僧である沢庵宗彭に引き取られ葬られました。しかし、江戸時代には、徳川家が墓を造ることを許さなかったため、土に埋められていた石田三成。明治末期になって、関西の実業家である朝吹英二によって、ようやく墓に納められることとなったのです。
「石田三成に逢える近江路MEET三成展」開催!嫌われ者の石田三成、真実はいかに?
石田三成は、大人気のNHK大河ドラマ「真田丸」でも重要な役割を担っており、大きな注目を集めています。「真田丸」の放送にちなんで、石田三成生誕の地・滋賀県で開催されているのが「石田三成に逢える近江路MEET三成展」。主催は、琵琶湖・近江路観光圏活性化協議会で、彦根・長浜・米原の3会場。長浜の会場では、「真田丸ゆかりの武将展」が開催されていて、石田三成をはじめ、「真田丸」にゆかりのある武将がパネルで紹介されています。
ほかにも、石田三成と豊臣秀吉の出会いがテーマになっている米原会場、「真田丸」に登場する石田三成の映像紹介や、衣装や小道具の展示などもある彦根会場など、「石田三成に逢える近江路MEET三成展」はみどころ満載。この催しは、11月30日まで開催されています。
石田三成といえば、豊臣秀吉に100%忠実な真面目さゆえか、これまでは、嫌われ者の武将の筆頭ともいえる存在でした。しかし、嫌われ者、極悪人といわれるようになったのは、石田三成が亡くなったあと。関ヶ原で戦った徳川幕府によって、悪いヤツだと捏造されたためです。
時代は変わって平成の世となった現在、大河ドラマ「真田丸」が放送されていることもあって、「好きな武将ランキング」でも上位にランクインするなど、石田三成人気は上昇中です。
石田三成、嫌われ者上等!豊臣家のために戦った関ヶ原で、もし、豊臣家が勝っていたとしたら……石田三成がどのような人物として後世に伝わっていたか、興味は尽きません。