浅井健一の天才的感性に椎名林檎もベタ惚れ!「BLANKEY JET CITY」の解散理由は?

浅井健一の天才的感性に椎名林檎もベタ惚れ!子供時代から宇宙人!?

浅井健一は椎名林檎が惚れた天才ロックミュージシャン

浅井健一は、2000年に解散した伝説のバント「BLANKEY JET CITY(ブランキージェットシティ)」のギター・ボーカルで、現在は、オルタナティヴロックバンド「SHERBETS(シャーベッツ)」や、ソロ名義で音楽活動を続けています。

「BLANKEY JET CITY」時代の人気の高さや、綴る歌詞の世界観、人間性などから、天才・カリスマ・孤高のアーティストなどと言われた浅井健一の愛称は「ベンジー」。椎名林檎の名曲「丸の内サディスティック」に、「ベンジー、グレッチ(浅井健一愛用のギター)で殴って」という歌詞が登場する通り、椎名林檎は浅井健一のファンとして知られています。

2人は、椎名林檎の「罪と罰」と浅井健一の「危険すぎる」、それぞれの作品で共演を果たしたことも。他にも、嵐の二宮和也など、多数の著名人が浅井健一の音楽に影響を受けたことを公言しています。

浅井健一の子供時代は宇宙人?不良少年がミュージシャンになるまで

浅井健一は子供時代、「宇宙人」と呼ばれるほど突拍子もない子供だったそうです。今では、そんな風に呼ばれていたことを自慢に思うとインタビューで語っています。自身を「不真面目なことが嫌いな真面目な性格」だと言う浅井健一の青春時代は、いわゆるヤンキーのパンク少年でした。

ギターは中学1年から、バンドは高校2年から始めており、不良ながらミュージシャンを夢に見ていたと言います。そんな浅井健一は、高校3年の文化祭の前日にバイク事故を起こして7カ月も入院することになり、それまでの補導歴も加味されたことから、通っていた長久手高等学校を退学に。

その後は単身上京し、ベースの照井利幸、ドラムスの中村達也と、「BLANKEY JET CITY」を結成。1990年に、「三宅裕司のいかすバンド天国」に出演し、6代目グランドイカ天キングに輝き、1991年に東芝EMIからメジャーデビューを果たしました。

浅井健一のプロフィール!「BLANKEY JET CITY」の解散理由は?

浅井健一のプロフィール!結婚した妻との馴れ初めや子供は?

浅井健一は、愛知県名古屋市名東区出身で1964年12月29日生まれです。絵の才能があることでも広く知られる浅井健一は、CDのジャケットやライブグッズのデザインはもちろんのこと、絵本「TED TEX」や、画集「Jet Milk Hill」も発売。さらに、個展を開催するなど、画家としての一面も持っています。

1995年に雑誌「CUTiE(キューティ)」の取材で出会ったモデルの小野寺マリと恋に落ちた浅井健一は、1996年に結婚し、1997年に長女・守里、2002年に長男・小次郎、2007年頃に次女の里緒をもうけています。馴れ初めや、自宅の様子を、雑誌「In Red」で夫婦揃って明かすなど、家族仲は良好な様子です。現在、浅井健一の長男・浅井小次郎は、芸能事務所・スターダストプロモーションの新人部に所属し、芸能活動を行っているようです。

浅井健一「BLANKEY JET CITY」の解散理由は何だったのか?

「BLANKEY JET CITY」は、人気絶頂の2000年5月、アルバム「Harlem Jets」の発売当日の朝日新聞の紙面に、「バンド史上最高傑作を世に放ち、ブランキージェットシティは解散します」との広告を掲載し、解散を発表しています。メンバーの衝突が頻繁に起きていた「BLANKEY JET CITY」には、1987年の結成当初から解散の話が絶えず付きまとっていました。

しかし、決して3人の仲が悪かったというわけではありません。「BLANKEY JET CITY」の解散理由を「色々あったんだよ」と答えている浅井健一。楽曲制作もライブも3人の感性がぶつかり・戦い・高め合って行われる中で、その極限のテンションとエネルギーを長年にわたり維持させていくことは困難に近かっただろうことは想像に難くありません。

ぶつかり合う気持ちの強さゆえに、「BLANKEY JET CITY」を継続させていこうという意志が燃え尽きてしまったということも考えられそうです。つまるところ、解散理由は「音楽性の違い」ということになるでしょう。

浅井健一の現在は?カレー屋にLINEスタンプクリエーター?!

浅井健一は、「BLANKEY JET CITY」解散後、もともと立ち上げていた「SHERBETS」を中心に、歌手のUAらと「AJICO(アジコ)」を結成したり(2001年解散)、「JUDE(ユダ)」を結成したり(2005年解散)、ソロ名義でも活動するなど、精力的に楽曲制作を続けています。

2010年には、元「BLANKEY JET CITY」のベース照井利幸と「Pontiacs」を結成し、ライブツアーを敢行しました(2011年に解散)。近年は、ファンに「また新しいバントを作ったのか」と呆れられることを防ぐため、「浅井健一&Bad Teacher Kill Club」や「浅井健一&THE INTERCHANGE KILLS」など、“ソロとバンドの間”という形態をとって新しい音楽活動をスタートさせるという“オチャメさ”も。

インタビューでは子育ての話を明かすなど、語る内容や雰囲気がブランキー時代とは違い、年々丸くなってきたというファンからの指摘も多い浅井健一。2013年5月には、世田谷区池尻に「Hammer Head Curry」というカレー屋をオープンさせるなど、往年の「怖い」「不良」といったイメージとは異なった姿も見せてくれています(2015年12月閉店)。2015年にリリースされた浅井健一のLINEクリエイターズスタンプは、そのシュールな世界観から、「浅井健一は天然?」とファンの間で話題になりました。

しかし、「自分がカッコイイと思える曲が作れなくなった時は辞める」という強い信念と美学に基づいて行われている楽曲制作のスタンスは変わりません。2017年7月には「SHERBETS」としてビルボードライブ東京に、8月には全国各地の夏フェスに浅井健一アコースティック・セットとして登場します。天才カリスマロックミュージシャンのかっこいい姿をお見逃しなく!

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