張本勲伝説!通算成績、暴言・失言もケタ外れ!!
張本勲の失言伝説!サンデーモーニングの暴言・失言がケタ外れ!!
張本勲といえば、TBS「サンデーモーニング」のスポーツコーナー「週刊御意見番」での辛口コメントでお馴染みの野球評論家です。スポーツニュースに対して「あっぱれ」「喝!」の二者択一でジャッジを下し、コメントを加えるこのコーナーは、TBS瞬間最高視聴率の常連。しかし、時にくりだすコメントが辛口をこえて暴言・失言のああに達することもしばしばです。
フィギュアスケートの高橋大輔の引退会見には「辞めるのか辞めないのか、はっきりせいや!と言いたくなる」、なでしこジャパンのワールドカップ準優勝に対しては「スポーツでは2番は意味がないんですよ」、イチローには「お金はしこたっているだろうし、もう辞めてもらいたいね」とコメントしている張本勲。けた外れの高打率でネットを炎上させています。
張本勲伝説!プロ野球での通算成績もケタ外れ!!
張本勲が暴言・失言級ともいえる大口をたたけるのには、理由があります。やはり、プロ野球選手として活躍した現役時代に残した通算成績がケタ外れにすごく、伝説ともいえる域に達しているということがあるでしょう。張本勲は、打者として活躍し、日本のプロ野球界初めてにして唯一3000本安打を達成した偉人。
他にも、500本塁打300盗塁も日本でただ一人達成。もちろん、野球殿堂入りもしています。いまだ誰にも超えられない記録を、自らの実力で勝ち取ったという自負があるだけに、「あっぱれ」「喝!」のコメントにも、その辺りの心情が透けて出てしまうようです。
張本勲と野村克也の仲は?三浦知良引退勧告事件とは!
張本勲と野村克也の仲は?辛口コメント対決
張本勲の他に、プロ野球界において、辛口コメントといえばもう一人、野村克也がいます。張本勲の辛口を通り過ぎて暴言・失言ともいわれる批評コメントに対して、野村克也も思うところがあったようです。2015年の7月に行われた横浜DeNA対巨人戦の副音声に登場した際には、「朝のテレビでいろいろ選手批判をしているけど、張本勲に選手批判をする資格ないですよ。彼と同じ世代をやった人間としてね、彼の談話を聞いていると、お前、人のことを言えるのか?とテレビに向かって文句を言っている」と、張本勲の行き過ぎたコメントに喝を入れています。
とはいえ、同時代に同じグラウンドでプレイした仲。「張本勲の側ではこんな話しゃべらないよ。手が早いからぶん殴られそうだ」と笑いながらコメントしていますから、不仲というわけではないようです。
張本勲の失言伝説!三浦知良引退勧告事件とは!
張本勲の失言伝説の中で、最も話題になったのが、キングカズこと三浦知良に対しての引退勧告事件です。事の発端は2015年4月。Jリーグで、最年長にしてゴールを決めた三浦知良に対し、「ファンには悪いけどね、もうお辞めなさい。(J2は)野球でいえば二軍。頑張ってもそんなに話題性がないですから。喝だ!」とコメント。サッカーファンを中心にネットは大炎上。これに対して、三浦知良は「もっと活躍しろと言われているんだと。引退しなくていいと言わせてみろという思いで言ってくれたと思ってやります」と大人なコメント。これには張本勲も番組内で「あっぱれ」を出して、「どこかで会えば、食事はごちそうするから」とまんざらでもない様子を見せていました。
張本勲伝説は終わらない!?障害、被ばくをのりこえて…!
張本勲は、野球界の生けるレジェンド。度重なる失言で、ネット上では「老害」とまでいわれてしまうこともあります。実際、張本勲は野球解説者であって、サッカー等の他のスポーツに関しては不勉強な部分があり、的外れなコメントをしてしまいがちです。とはいえ、張本勲が「ご意見番」として、コメントを求められ、そのコメントがどんな形であれ「話題」になるのは、張本勲が、日本プロ野球界が生んだ偉大なスターであることの証明でもあります。
張本勲は1940年生まれの75歳。広島県出身です。両親は韓国出身で、張本勲は在日韓国人2世にあたります。母親が身重のまま、当時は日本領だった朝鮮から広島にわたり、広島で張本勲が生まれました。
幼い張本勲には、たび重なる、悲劇がおこります。4歳の冬に、土手でどんと焼きを囲んでいた時、バックしてきたトラックを避ける際にバランスを崩し、どんとの炎で大火傷をおって、右手の親指、人差し指、中指以外が自由に動かないという障害を抱えることになります。
そして、5歳の夏。爆心地からおよそ2キロの広島市段原新町で被ばくした張本勲。この時の原爆投下で姉を失っています。この被ばく体験は、張本勲の心にずっと影を落としていくことになります。
終戦後には、父が急死し、一家の家計を張本勲の母一人が支えることに。戦後の混乱期の中、張本一家は食べるものにも事欠く貧しい生活が続きます。小学校5年生で周囲に誘われ野球を始めた張本勲。同じ頃、広島に来ていた読売ジャイアンツの宿舎での豪華で豊かな食事風景を覗き見て、張本勲は衝撃をうけます。
張本勲の歴史はここから始まりました。「トタン屋根の長屋から抜け出すにはこれしかない」、「母親に広い家をプレゼントする」「美味しい食べ物を腹一杯食べる」という決意を胸に抱き、プロ野球選手になるという目標をもって、野球にうちこんでいったのです。
努力の甲斐があって、張本勲はめきめきと実力をつけていきました。甲子園出場は逃したものの、その実力は「東の王、西の板東、張本」といわれるほどで、スカウトから声がかかり念願のプロ野球選手となります。
その後は、プロ1年目から打者として活躍。「安打製造機」という異名をとるほど、毎年活躍を重ねていきました。こうして張本勲の通算成績を通じて野球人生をみると、非常に順調で、才能に恵まれた人間という印象を抱きがちです。
しかし、才能はもちろんあったのでしょうが、他には真似できないほどの努力の人であったのが真実。実際、張本勲も現役時代「ある日突然、バッティングの才能が目覚めるなんてことは絶対ない。半狂乱になってバットを振って振って振りまくった人だけに打撃の極意というものは見えるんです」とコメントしています。張本勲は、布団の横にバットを置いて、夜中でも素振りをしはじめるような練習の鬼でした。キャンプで同室になった山崎正之は、頭の数十センチ上でバットを振られるので、寝るに寝られなかったといいます。
張本勲がここまで野球に打ち込んだのには、貧しさから抜け出し、母親を助けたいという思いの他に、幼い頃の被ばく体験も大きかったそうです。辛い体験を思いだすのが怖くて野球に打ち込み、バットを一心不乱に降り続けることで、その記憶を封じてきた張本勲。不自由な右手で、他の選手に比べて大きなハンディを抱えていながら、プロ野球選手として、前人未到の大記録を打ち立てた張本勲の右手を見た野球評論家の川上哲治は「よくもそんな手で……」と涙を流したといいます。
張本勲の成功の裏には、辛い経験を乗り越えようともがいた不屈の精神がありました。その現役時代の輝きを知る世代には、張本勲は今も伝説のままなのでしょう。しかし、若い世代には、失言の多い困った野球解説者に映ってしまうのは、残念な話でもありますね。