鹿取義隆は巨人軍の元リリーフ投手!生涯成績は?
鹿取義隆は巨人軍のリリーフ職人!ベンチの信頼は絶大だった!
「ピッチャー、鹿取!」。毎試合のようにリリーフに登板し、黙々と投げ続ける姿が印象的だった元プロ野球投手の鹿取義隆。彼を一言で表すならば、「リリーフ職人」がふさわしいのではないでしょうか。
彼の登板を告げる王貞治監督(当時)のコールは、1987年に流行語になったほどでした。実際、王貞治が巨人監督として初めてリーグ優勝を飾った同年、クローザーとしての鹿取義隆の貢献度は大きなもの。毎日投げ続ける姿からは、酷使という意味の「鹿取られる(かとられる)」や、「王(ワン)パターン」などと揶揄されるほどでしたが、逆に言うと、それほどベンチの信頼が絶大だったことを示していました。
王貞治監督が巨人軍で指揮を執った5年間で、リリーフ中心に275試合登板を記録している鹿取義隆。1シーズンあたり50試合前後登板しているわけですから、やはりベンチの継投策には不可欠な人材だったことが分かります。もともとブルペンでの調整は早く、3球で肩を作れるというタフネスぶりでも知られていました。しかし、決して肩の仕上がりが早かったわけではなく、信頼に応えるために調整を工夫していたそうです。
そんな鹿取義隆は、クローザーの必須条件として、速球が武器になり、ウイニングショットが2種類はあること、連投できて短時間で集中力を高められることと説いています。巨人時代終盤には登板が激減した鹿取義隆ですが、信頼できるリリーフを求めた西武ライオンズに移籍。常勝西武でも絶大な信頼を受け、時にはロングリリーフをこなすこともありました。
鹿取義隆の生涯成績はほとんどリリーフだった!当時のセーブポイント新記録達成!
鹿取義隆の生涯成績は、実働19年間で、755試合登板91勝46敗131セーブ勝率6割6分4厘。1306回1/3を投げて、防御率2.76を記録しています。その登板はほぼリリーフで、先発登板はなんと16試合のみ。まさにリリーフのスペシャリストと言ってよいでしょう。ゆったりしたサイドスローから投げるキレのいいストレートに低めの制球が持ち味で、絶対的なウイニングショットこそありませんが、制球のコンビネーションとタフネスさを武器に投げ抜いた異色の鉄腕です。
巨人時代は、セットアッパーとしての登板が多かったですが、クローザーに転向した1987年は、63試合に登板して、7勝4敗18セーブ、防御率1.90でリーグ優勝の原動力に。その貢献度でMVPも有力視されましたが、残念ながら僅差で次点となりました。西武移籍後の1990年5月には、当時新記録となる10試合連続セーブを達成し、シーズントータルでは、37試合3勝1敗24セーブ、防御率3.00の成績で、プロ初タイトルとなる「最優秀救援投手」を受賞。1992年8月には、通算100セーブを達成したほか、当時の日本記録となる、35歳で初の2桁勝利をマークしました。
同年オフの契約更改では、初めて年俸1億円(推定)にも到達。1996年5月6日に救援勝利を挙げて通算80勝130セーブとなり、江夏豊の210セーブポイントと並ぶ当時の日本タイ記録を樹立しています。その後、5月16日にも救援勝利を挙げたことから、211セーブポイントの新記録を達成しました。
鹿取義隆の出身やプロフィール!コーチとしての評価は?
鹿取義隆は明治大で21勝!あの江川事件でプロ入りへ急転!
鹿取義隆は、1957年3月10日生まれで、高知県香美市出身。身長174cm、体重78kg、右投げ右打ちです。高知商業時代は、2年夏に甲子園に出場したもののベスト8で涙を呑み、3年夏は、高知県大会3回戦で高知高校の前に屈し、甲子園出場はなりませんでした。その後、高校の先輩が数名在籍していた明治大学へ進学した鹿取義隆は、2年からベンチ入りして、大学通算21勝14敗、防御率1.89、219奪三振の成績を残しています。
江川卓が君臨していた法政大学などの壁に阻まれながらも、1978年の4年春にはリーグ優勝。同年の日本選手権でも、決勝で専修大学を完封し、優勝を果たしました。大学卒業後は社会人野球に進む予定で、プロ入りは一切考えていなかった鹿取義隆。しかし、ドラフト会議前に江川卓と巨人が入団契約を交わしていた「江川事件」で、巨人がドラフト会議参加をボイコットしたことから、彼の運命は急転します。
巨人から獲得の打診を受けた鹿取義隆は、紆余曲折の結果、ドラフト外でプロ入りすることに。同じサイドスローの小林繁が、江川卓とのトレードで阪神入りしたチーム事情もあり、ルーキーイヤーからリリーフとして起用されました。シーズンオフには、猛練習で伝説となった伊東キャンプに参加し、左バッター対策として鋭く落ちるシンカーを習得した鹿取義隆は、みるみる成長を遂げます。
以降は、巨人と西武でリリーフ役に徹しました。しかし、左ヒザの悪化などでボールのキレを失い、1997年限りで現役引退。その後は、巨人投手コーチ、ヘッドコーチなどを歴任します。2017年4月1日付で巨人GM特別補佐に就任して、同年6月13日に巨人のGM兼編成本部長に昇格しています。謙虚な人柄で知られる鹿取義隆は、西武時代の契約更改で、球団からの年俸1億円提示に対し、「1億円は主役の金額」と固辞して、手前の金額で契約したこともありました。
その反面、思ったことははっきり言う一徹な面を伝えるエピソードもあります。欽ちゃんこと萩本欽一との親交は有名で、番組に出演した際には、「俺は欽ちゃんに誘われたから番組出演した。ギャラは受け取れない」と、出演料の受け取りを拒否したそうです。テレビ局から事の顛末を聞いた欽ちゃんがなだめすかしても、「俺は気分で出演を受けたから、ギャラを出してもらっては困る!」。あの欽ちゃんを手こずらせるとは、相当の”いごっそう”ですね。
鹿取義隆はズケズケ意見するコーチだった!長嶋茂雄にもダメ出ししていた!
現役時代は黙々と投げるイメージの強かった鹿取義隆ですが、コーチに転じてからは、監督にもズケズケと意見していたと言います。長嶋茂雄監督の下でコーチを務めた時期も、投手起用を巡って、遠慮なく意見しました。ピッチャーを惜しみなく登板させる監督に対して、「そんな起用では、シーズン終盤までピッチャーが持つかどうか心配です。起用法を考え直してください!」とダメ出ししたとか。
原辰徳監督時にヘッドコーチに就任しても、そのスタンスがブレることはなく、投手陣を整備して日本一に導く手腕を発揮する一方で、コーチの中で唯一、毅然とした意見を吐き続けました。それでも独りよがりをやめようとしなかった原辰徳監督が、投手起用を自身のHPで発表し始めると、「何のために自分がいるのか分からない」と退団してしまいます。
実は筋を通す硬骨漢として定評があり、こうすべきと思えば遠慮会釈なく口に出す鹿取義隆。今回の巨人GM就任で、球団や読売上層部の無理難題に毅然とした対処が取れるかどうかも注目を集めています。
鹿取義隆のシーズン中の巨人新GM就任は異例!「OBとして真摯に受け止めて」とコメント!
巨人が、堤辰佳GM退任後、その後任に、鹿取義隆GM特別補佐が就任すると発表しました。59試合で24勝35敗、借金11で5位、球団ワースト記録13連敗を喫するなど、不振にあえぐ堤辰佳GMは事実上の更迭。人事一新で、再出発を図ることになりました。昨シーズンオフには、FAで陽岱鋼や山口俊、森福允彦を獲得するなど、約30億円を投じて大型補強を敢行した巨人。
しかし、その陽岱鋼と山口俊が出遅れたことなどもあって、チームは大不振に陥りました。渡辺恒雄読売新聞グループ本社代表取締役主筆が「見る目がなかったのでは」と発言するほどの責任問題となったため、GM交代で事態を収拾にかかった形ですが、前半戦の最中のGM交代人事は極めて異例です。巨人GMにプロ野球経験者が就任するのも初めてということからも、今回の重大さが分かります。
新GMに就任した鹿取義隆は、「巨人OBとして真摯に受け止めていきたい」とコメントしていますが、理由はどうあれ、この時期のGM交代は、トカゲの尻尾切りでしかありません。連敗ワースト記録の責任を高橋由伸監督には押し付けられないから、GMに責任を押し付けたというのが一般的な見方です。GMとは本来、チーム全体の人事権を持つ編成面の最高責任者とされています。
しかし、巨人の場合は、GMとは名ばかりで、ほとんど権限はなく、親会社が平気で介入する構図がまかり通っているのは有名な話。鹿取義隆新GMの成功の可否は、権限を持たせて、彼のキャリアを生かした長期的な視野によるチームづくりを任せられるかどうかにかかっています。果たして、読売グループがそこまで配慮しているかどうかは怪しいものですが、おそらく、鹿取義隆もその辺は承知の上で就任しているはず。硬骨漢の彼のことですから、相手が親会社上層部であろうが、臆せず意見するに違いありません。