ケイコ・フジモリの父親アルベルト・フジモリの現在は?

ケイコ・フジモリの父親アルベルト・フジモリの現在は?

ケイコ・フジモリの父親アルベルト・フジモリは、日系2世で第91代ペルー大統領だった

ケイコ・フジモリは、1976年生まれの41歳。第91代大統領だったアルベルト・フジモリの長女です。2016年6月5日、ペルー大統領選挙の決選投票が行われました。4月10日の1回目投票では、日系3世のケイコ・フジモリが、1位通過し、初の女性大統領が期待されましたが、規定票には達せず、逆に決選投票では、反フジモリ票を集めた、ペドロ・パブロ・クチンスキーが50.12%、ケイコ・フジモリが49.87%の僅差で逆転し、第95代ペルー大統領となりました。

ケイコ・フジモリは、2011年の大統領選に続いての惜敗です。では、ケイコ・フジモリ落選の原因となった反フジモリとは何でしょうか。それは、ケイコ・フジモリの父である、第91代アルベルト・フジモリ大統領の治世に原因があります。ペルーは、国民の大多数を占めるインディオと、一部の裕福なスペイン系ペルー人、そして日系人などを中心とする移民で構成されています。

日系人は、持ち前の勤勉さで、ペルー社会において成功した者が多く、少数ながら学歴も高く比較的に裕福で、政治的にも発言権を持つようになっていました。アルベルト・フジモリは、1938年生まれの77歳。彼が52歳の時、第91代大統領に就任すると、混迷を極めていたペルー経済を見事に立て直す一方、麻薬組織および左翼ゲリラを中心とした、ペルー国内の治安を回復した実績が、高く評価されています。

ケイコ・フジモリの父親アルベルト・フジモリの栄光と挫折

ケイコ・フジモリの父親アルベルト・フジモリは、政治手腕を高く評価された一方で、議会での対立や、収まらないゲリラ活動に対して、1992年、軍を使って自らがクーデターを起こしました。しかし、大統領権限を強める政策をとったことが、国民の反感を買うようになります。1995年のペルー大統領選では圧勝しますが、アルベルト・フジモリ在任中の1996年12月17日、左翼テロによる日本大使公邸人質事件が発生。事件は、1997年4月22日、軍の特殊部隊が公邸に突入して、人質であった日本人全員が無傷で助けられる形で解決しました。

しかし、テロ犯人は全員が射殺されるという結果に、大統領の独裁的権力に対する批判は高まるばかりでした。また、2000年のペルー大統領選では、ついに大統領高官の汚職が明らかとなりました。2000年末、アルベルト・フジモリ大統領は、APEC出席のため出国し日本に来日した時、突然、大統領辞任を申し出、日本に亡命します。その結果、ペリー国内は大混乱し、反フジモリ一色に。

それでも2005年の大統領に出馬するため、日本からチリに入国し、ペルーへの帰国を目指しますが、結局2007年にチリが、ペルーへのアルベルト・フジモリ身柄引き渡しに合意。帰国した彼は、強権政治による民間人殺害など、数件の罪で禁固25年の刑を受けました。アルベルト・フジモリは、現在も、ペルー国内で服役中です。今なお続く反フジモリは、当然、アルベルト・フジモリ自身の強権政治や突然の業務放棄が大きな原因ですが、国民の大多数を占めるインディオの、ネイティブとしての複雑な感情が、その底流にあると考えられます。

ケイコ・フジモリのペルー大統領選出馬の国民の反応は?日本語は話せる?

ケイコ・フジモリは米国留学でMBAを取得した才媛

ケイコ・フジモリは、1993年に米国に留学し、1997年にはボストン大学を卒業。その後ペルーに帰国しますが、2004年に再度渡米して、コロンビア大学ビジネススクールでMBAを取得した才媛です。父アルベルト・フジモリと母が離婚した1994年8月以降は、ファーストレディの代わりを務め、若くして国政に深く関わってきました。英語、スペイン語を話し、現地のケチャ語や日本語も、ある程度はこなせるようです。反フジモリとはいえ、アルベルト・フジモリが全く否定されたわけではありませんでした。それが証拠に、アルベルト・フジモリへの期待は、娘ケイコ・フジモリへと継承され、国民半数の支持を、今でも得ているからです。

ケイコ・フジモリは「反フジモリ」で2度もペルー大統領選に敗れた

ケイコ・フジモリは、2006年、いよいよペルーの総選挙に出馬し、過去最大の60万票を集めてトップ当選します。2009年には、分裂していたフジモリ派議員をまとめ、中道右派の政党フエルサ2011(Fuerza 2011)を立ち上げ、その党首の座に。ケイコ・フジモリの政策は、父アルベルト・フジモリが行った、弱者救済の経済政策と治安維持による、安定した国家運営を目指しています。

そして、トップ当選の勢いのまま、2011年、2016年のペルー大統領選挙に挑んだケイコ・フジモリ。保守勢力として常に圧倒的な支持を得ながら、それがまた、反フジモリというポピュリズム感情を増大させた結果、ケイコ・フジモリは、2度も大統領になり損ねてしまいました。

ケイコ・フジモリが目指す3度目の正直は実現できるか?!

ケイコ・フジモリは、特に今回2016年のペルー大統領選挙では、事前の調査で、対立候補のペドロ・パブロ・クチンスキーを数ポイント引き離し、ほぼ当選確実といわれていました。しかし蓋を開ければ、ペドロ・パブロ・クチンスキーが50.12%、ケイコ・フジモリが49.87%の僅差で、逆転される結果に。この票差は、ほぼ誤差の範囲であり、結果側が異議を唱えれば、再投票というような混乱を生んだかもしれませんが、民主主義が反映された結果として、粛々と受け止めたケイコ・フジモリ。ペドロ・パブロ・クチンスキーに対して、今後の国政運営協力を伝えています。

大統領候補は2人ともに中道右派で、経済政策的に大きな違いはありません。他の南米諸国に比べ、確実に経済成長を遂げているペルーでは、従来の左翼テロなどが減少した半面、一般犯罪の広がりが目立ち始めました。ケイコ・フジモリの、治安の悪化に対しては断固強い手段で臨むという姿勢は、当然のごとく、ペドロ・パブロ・クチンスキー陣営や、議会の左翼勢力にとって、「父親と同じ独裁政治を目指している」、「民主主義を守れ」といった格好の批判材料に。

ケイコ・フジモリの今回の選挙の敗因は、このポピュリズム的なスローガンに、左翼テロも知らず比較的豊かに育った、お祭り騒ぎ好きの若者たちが迎合してしまったからではないかという説も上がっています。しかし、ケイコ・フジモリは、まだ41歳。堅実に政治実績を積んでいくことで、4年後のペルー大統領選挙を、しっかりと見据えているようです。

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