2020年3月26日 更新
木田勇は驚異の成績で投手タイトル独占!伸び悩んだ原因とは?
木田勇は驚異の成績で投手タイトル独占!年棒推移は?
プロ野球でスーパールーキーとしてもてはやされた木田勇(きだいさむ)をご存じでしょうか?1980年のシーズンに彗星のごとく出現し、一躍日本球界を席巻する存在となった伝説のサウスポーです。しかし、その栄光は長く続かず、まさに「太く短く」を象徴する野球人生を辿りました。本人にとっては悔いの残る現役生活だったと思いますが、ルーキー時代に演じた快投は、今もなお輝き続けています。
木田勇の通算成績は、273試合に登板して60勝71敗6セーブ、防御率4.23。1212と2/3回を投げ、先発167試合中46完投6完封で、2無四球試合、860奪三振となっています。獲得タイトルは、最多勝利や最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振がそれぞれ1回で、MVP1回に新人王、ベストナイン、ダイヤモンドグラブ(現在はゴールデングラブ)賞がそれぞれ1回という華やかなものです。
横浜一商高(現・横浜商科大学高)から社会人野球の日本鋼管に進み、エースとして台頭した木田勇。1978年のドラフト会議では、3球団から即戦力として1位指名を受けましたが、交渉権を獲得した広島への入団を拒否しました。都市対抗でも活躍し、1979年のドラフト会議でも再び3球団から1位指名を受けた木田勇は、交渉権を得た日本ハムへの入団を決意します。
入団条件は、推定で、契約金6000万円と年俸540万円でした。木田勇の得意とする球種は、空振りの取れるストレートとカーブ、パームボール。百戦錬磨のバッターたちをも翻弄する切れ味で、40試合に登板して、22勝8敗4セーブ、19完投2完封に228奪三振、防御率2.28と驚異の成績をあげました。
ルーキーながら投手タイトルを独占した木田勇は、新人王だけでなくMVPまで受賞して一躍名を馳せます。このシーズン22勝は、後に楽天・田中将大(現ヤンキース)が24勝するまで33年も破られなかった大記録で、年俸は1320万円にアップしました。
しかし、翌1981年は「2年目のジンクス」に苦しみ、4試合連続でKO負けを記録するなど、10勝10敗、防御率4.77と精彩を欠きます。その後移籍した日ハム時代は、年棒1740万円を最高として1560万円で推移。1986年にかつてドラフトで指名された横浜大洋へ移籍し、年俸が最高額となる2300万円に到達したものの、それ以降は成績も尻すぼみに……。1990年に移籍した中日でも結果が残せず、そのシーズン限りで現役を引退しました。
木田勇が伸び悩んだ原因とは?調整失敗や相手チームの研究を怠ったため?
ルーキーとして出色の成績を挙げ、テレビ出演やサイン会にも引っ張りだこになるなど有名人となった木田勇でしたが、一層の飛躍が期待された2年目以降は、伸び悩む姿が目立つようになります。ルーキー時代に大活躍した選手は、翌シーズンに「2年目のジンクス」に陥りがちですが、木田勇もその轍を踏んでしまったと言えるでしょう。
デビューした翌1981年は、開幕第2戦に先発登板して完投勝利は収めたものの、満塁ホーマーを浴びるなど9失点のスタートでした。本人も「春季キャンプで走り込みが足りなかったので、フォームが安定していない」と語っていた通り、シーズンに向けての調整が不十分だったことが分かります。
その影響もあって、シーズン序盤から変化球に頼る単調なピッチングが続き、前年の勢いはどこへやら。引退するまで、伸び悩みを払拭することはできませんでした。伸び悩みが続いた理由としては、シーズンの疲れが完全に抜け切れていなかったことが指摘できます。
40試合で投球回数は253回にも及んでいるので、疲労は相当蓄積していたことでしょう。オフシーズンは、オーバーホールに励んでコンディションを整える必要がありますが、度重なる取材やテレビ出演などで、調整を怠りがちだったことは容易に想像がつきます。
また、相手チームの研究ができていなかったことも考えられるかもしれません。相手もプロですから、攻略方法を編み出してくるのは当然のことです。その対策がおろそかになっていたことは否定できません。天狗になってプロを甘く見ていたと言われればそれまでですが、調整の失敗が彼の野球人生を縮める結果になったことが惜しまれます。
木田勇は1試合最多投球209球の記録保持者!中日引退後の現在は?
木田勇は1試合最多投球209球の記録保持者!
数々の記録を持っている木田勇ですが、今後破られることはないであろう「怪記録」も保持しています。それは、「1試合の最多投球数209球」という記録です。延長回も投げ続けたわけではなく、9回を完投しての投球数ですから、いかに凄まじい記録かが分かります。
これに肉迫したのが、1994年7月に野茂英雄(当時近鉄)が記録した191球です。しかし、分業制が基本となり、1人の投手が1試合を投げ切るケースは少なくなっている昨今、2016年に阪神の藤波晋太郎が8回で161球投げたという記録もありますが、木田勇の記録を破ることはもはや不可能でしょう。
木田勇の投球数は、プロ入り4年目の1983年9月の対西武戦で記録されました。被安打14本に8四死球、10失点という数字が、いかに調子が悪かったかを物語っています。もちろん、結果は敗戦投手です。これだけ調子が悪くてもなぜ交代させなかったかといえば、試合の勝敗が決定的だったためということが考えられます。木田勇の栄光は、すでに過去のものとなっていました。
木田勇が中日引退後の現在は?
1990年に、中日で1年だけプレーし、11年間の現役生活にピリオドを打った木田勇は、サラリーマンとして川崎市の印刷会社に勤務しました。とはいえ、プロ入りして最初に在籍した日本ハムには愛着もひとしおだったようで、日本ハムOB会で会長を務めたり、試合前の始球式に登板したり、試合をスタンドで観戦するなど、OBとして関わりを持ち続けています。
また、2005年には、プロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャスの一員としてプレーしていた他、北信越BCリーグの信濃グランセローズや、社会人女子硬式野球部では、監督として指揮をとったこともありました。
木田勇と高木豊の1打席対決!ともに両チームでプレーした2人の異色対戦は?
2018年6月に行われた、横浜DeNAと北海道日本ハムの交流戦の試合前に、木田勇が登場しました。これは、3連戦中に、両チームのレジェンドOBによる1打席対決イベントが行われたため。かつて活躍した懐かしい選手たちがグラウンドに立つという、昔を知るファンにとってたまらない催しの初日に対戦したのが、木田勇と高木豊です。
ルーキーイヤーに数々のタイトルを総なめしたサウスポーと、走攻守3拍子そろったトップバッターという取り合わせ。しかも、2人とも、横浜と日本ハム両チームでのプレー経験を持つというちょっと異色な対戦でした。木田勇は横浜出身で、地元の横浜大洋入りを望んでいながら、日本ハム入り。
しかし、1986年31歳の時に横浜大洋へトレードされました。かたや、横浜大洋の主力として活躍した高木豊も、1994年の1シーズンだけ日本ハムでプレーしています。奇しくも、日本ハムでは背番号「16」を背負ってプレーしたという共通点もあるなど、今回の1打席対決をキャスティングした営業サイドもなかなか考えたものです。
横浜大洋では、かつての雄姿こそ蘇らなかったものの、粘り強いピッチングを見せるなど随所での好投が光った木田勇。この日の1打席対決でも、ファウルで粘る高木豊を変化球で三振に打ち取り、面目躍如といったところでした。彼の野球人生を語ろうとすると、どうしても日本ハム時代にスポットライトが当たりがちですが、どうしてどうして横浜大洋時代も捨てがたい味わい深さがあると言えます。日本ハムOBとしての活動ももちろんですが、横浜大洋OBとしてハマのマウンドに立つ機会もあっていいのではないでしょうか。