小室哲哉を狂わせた天才経歴の序章!TM NETWORKの由来とは?

小室哲哉を狂わせた天才経歴の序章!TM NETWORKの由来とは?

2022年4月4日 更新

小室哲哉を狂わせた天才経歴の序章!TM NETWORKの由来とは?

小室哲哉が”天才”と呼ばれるまでの経歴!TM NETWORK以前の姿とは?

小室哲哉は、音楽ユニットTM NETWORKでコアなファン層を築き、1990年代後半は、音楽プロデューサーとして率いた小室ファミリーで、J-POP界に新時代を築き上げた男。風雲児、20世紀のモーツァルトと称されたこともありました。小室哲哉の天才経歴の序章は、早稲田大学社会学部在学中までさかのぼります。

当時、「あのねのね」など、プロのグループのキーボードサポートメンバーとして活動していたことは有名ですが、小室哲哉はこの時期すでに、音楽制作方面でも才能を発揮していました。例えば、1983年の安岡力也扮する”ホタテマン”の大ヒットコミックソング「ホタテのロックンロール」。

小室哲哉は、イントロのシンセサイザーを担当する他、楽曲のアレンジも行っています。当時、作詞を担当した内田裕也は、小室哲哉のことを「ピコピコ」と呼んでいたとか。小室哲哉の人とは思えぬシンセサイザー奏法は、まさに「ピコピコ」。まだ電子音楽が浸透していなかった日本において、彼の音楽は衝撃的でした。

小室哲哉が命名したTM NETWORKの名前の由来!天才にも意外な凡庸さがあった

小室哲哉が、1980年に参加したSPEED WAYは、すでにメジャーデビューから1年が経過した6人組の生音バンドでした。小室哲哉自身はSPEED WAYを1年で脱退しており、1983年には、バンド自体が自然消滅。同年に、SPEED WAYのメンバーだった宇都宮隆と木根尚登の3人で結成したのが、TM NETWORKです。TM NETWORKといえば、”シンクラヴィアを駆使した近未来的電子音楽ユニット”というイメージ。

「TM」の由来は、近未来の象徴であるTIME MACHINE(タイムマシーン)で、ファンクラブ名も「タイムマシーンカフェ」と、強いコンセプトを感じさせられるものです。しかし、実はこれは、小室哲哉によって後付けされたものであったことが判明。

小室哲哉は当初、メンバー3人の出身地”東京多摩地区”に由来する「多摩(TAMA)」を提案しています。話し合いが持たれた場所も、ファミレスの元祖”すかいらーく”だったというから、何とも庶民的。小室哲哉は、当時から時代を牽引する才能の片鱗を見せながら、普通の若者らしい一面も持ち合わせていました。

小室哲哉のプロフィールや生い立ち!TM NETWORKを外れたソロ活動でも名曲が

小室哲哉のプロフィール!神童たる生い立ちと学生時代の素顔

小室哲哉は、1958年11月27日、東京都府中市に生まれました。音楽との出会いは、3歳の時。東京藝術大学教授の下でバイオリンレッスンを始めた小室哲哉は、小学生の頃からクラシック音楽をベースとする作曲を始めました。小学5年生でエレクトーンと始めると同時に、母方の叔父に学び始めたギターコードも、あっという間に習得してしまいます。

そして、1970年の大阪万博。間近で見た冨田勲のシンセサイザー演奏に衝撃を受けた小室哲哉は、家にあった楽器を、家族に無断で売り払ってシンセサイザーを購入。洋楽を中心とするロックに傾倒するようになっていきました。小室哲哉は、府中市立府中第四中学校、早稲田実業高等部商業科出身。学生時代は、バスケットボール部に所属したこともありましたが、目立つことが嫌いな、大人しい少年でした。

しかし、小室哲哉の飛びぬけた作曲の才能は、否応なく注目を浴びることに。クラスメイトの半数の作曲課題を肩代わりしたこともあったそうですが、その多種多様のメロディは、音楽教師でさえ、同一人物の作品とは全く気付きませんでした。後に進学した早稲田大学では、5年間の在籍期間を経て除籍処分になっていますが、今思えば、最も純粋に音楽だけを見つめることができた時代だったといえそうです。

小室哲哉はTM NETWORK以外のソロ活動で独走態勢!名曲生み出す量産型ヒットメーカーに

小室哲哉は、デビューのきっかけとなったコンテスト優勝曲「1974」や、デビュー曲「金曜日のライオン」などをはじめとする、TM NETWORKの楽曲のほとんどを作曲しています。「Get Wild」が60万枚超の大ヒットとなった1987年前後は、小室哲哉の音楽性が1つの地位を確立していった時期でもありました。

1986年に渡辺美里に提供した「My Revolution」が、レコード大賞金賞を受賞するなど、プロデュース業でも強い存在感を示し始めた小室哲哉。「Get Wild」に続く、「シティハンター」のテーマ曲となった1989年のソロ曲「RUNNING TO HORIZON」のヒットを皮切りに、TM NETWORKの外での個人的な名声が高まるようになります。

全曲自ら歌唱を担当したアルバムを発売するかたわら、アニメ映画「吸血鬼ハンターD」、実写映画「ぼくらの7日間戦争」「天と地と」、ミュージカル「マドモアゼルモーツァルト」の劇中音楽。さらには、観月ありさや宮沢りえに提供した楽曲のヒット……こうした誉は、小室哲哉がTM NETWORKを離れ、量産型天才プロデューサーとして独走するきっかけとなりました。

小室哲哉のTM NETWORK時代は超ワガママ?歌がうまければ音楽史は変わっていたかも

小室哲哉という存在は、TM NETWORKそのものを象徴していました。TM NETWORK当初は、打ち込み音楽は軽視されがちで、その分野では、YMOが専売特許を持っていた時代。陽の目を見ない時期を開拓していったのは、まさに小室哲哉のプロデュース力の賜物でした。「Get Wild」以降の1988年に発売された、アルバム「CAROL」。ブリティッシュロックを踏襲した楽曲の出来栄えもさることながら、コンセプトアルバムとしても、類いまれなる完成度でした。

”ファンタジーミュージカル的なロックショー”をイメージした小室哲哉は、まず、TM NETWORKの木根尚登に同名小説の執筆を依頼しています。これに楽曲のストーリー性を見事にリンクさせ、アルバム、小説共に大ヒット。しかし、小説など書いたこともない木根尚登にとって、全くといっていいほど、心地よい作業ではありませんでした。近年のバラエティ番組で木根尚登が吐露しているように、ギターを弾けない彼にエアギターを強要するなど、小室哲哉の数々の横暴ぶりは明らかです。

天才ゆえのこだわりともいえそうですが、グループとしての調和は保たれなかった模様。その後、TM NETWORKはTMNと改名し、ハードロック要素を展開したかと思った直後、アルバム「EXPO」を最後に活動を休止してしまいました。その後の小室哲哉は、プロデューサーとして、時代の波に乗ることに。ただし、ソロ歌手としての活動がなりを潜めていったのは、「歌唱力があまりにも酷すぎたから」という事実は、特記しておくべきでしょう。もし、小室哲哉に人並みの歌唱力があったなら、日本に小室ファミリーブームは訪れなかったかもしれません。

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