三船敏郎の晩年が切ない!世界のミフネと呼ばれた名優の軌跡

三船敏郎の晩年が切ない!世界のミフネと呼ばれた名優の軌跡

三船敏郎の偉大な業績を台無しにした晩年の泥沼不倫

三船敏郎は、黒澤明監督作品に数多く出演し、戦後の日本映画史に燦然と輝く大スターです。

1950年、東宝第一期ニューフェイスの同期だった女優・吉峰幸子と早くに結婚し、三船史郎、三船武志の2人の男の子に恵まれています。しかし、次男の三船武志が生まれた頃から、三船敏郎は、自身の設立した三船プロダクションに所属していた28歳も年下の女優・喜多川美佳と不倫関係となり、子供までできてしまいました。その子こそ、高橋ジョージとの離婚問題で世を騒がせた三船美佳。なんと三船敏郎が62歳の時の子供です。

三船敏郎は、数回の離婚訴訟を起こしますが、妻の幸子は決して応じませんでした。一方、愛人である喜多川美佳は、三船プロの内紛にも関わり、プロダクションは分裂縮小してしまいます。おまけに喜多川美佳が信心する某団体との軋轢もあり、心身ともに疲弊しきった三船敏郎は、心筋梗塞に。

そして、1997年、77歳で亡くなりました。そんな三船敏郎を看病し、最期まで看取ったのは、本妻であった幸子夫人です。三船敏郎の没後20年を経た今、語られることといえば、泥沼不倫の哀れな晩年のことばかり。晩年の三船敏郎は、四半世紀にも及ぶ泥沼の不倫で、大スターとしての名声を失ってしまったといえます。

三船敏郎が築いた戦後の映画黄金時代

三船敏郎は、亡くなった3年後となる2000年に発表された「キネマ旬報」の「20世紀の映画スター・男優編」で、日本男優の1位に選ばれました。2014年、映画雑誌「キネマ旬報」で企画された「オールタイム・ベスト」でも、日本映画男優部門の堂々1位となっています。晩年も、1~2年に1本程度は、映画に出演していた三船敏郎でしたが、1940年代後半から1960年代にかけて、映画全盛期に出演した頃の出演本数や人気には、到底及ぶものではありません。

その魅力で、スクリーンを通して、敗戦し疲弊しきっていた日本を元気づけたとも評される三船敏郎の存在感は、海外の映画監督たちからも注目され、「世界のミフネ」とまで呼ばれるようになりました。三船敏郎は、当時の人気俳優の口火を切って、個人の制作プロ「三船プロダクション」を設立しています。

いち早くテレビ番組制作にも進出し、それなりの成果も上げていました。しかし、名優として、これほどまでに輝かしい栄光を手に入れたにもかかわらず、後半生の私生活が苦渋に満ちたものとなったことは残念としかいいようがありません。

三船敏郎の魅力がほとばしる!おすすめ名作映画

三船敏郎の黒澤明監督に見出され開花した初期の名作群

三船敏郎の俳優としての魅力を開花させたのは、なんといっても黒沢明監督です。また、三船敏郎がいたからこそ、黒澤明監督は「世界の黒澤」になりえたのかもしれません。「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」など、寡黙で豪快なサムライのキャラクターは、世界の人々に、新たな日本人像を強く焼き付けました。一方、三船敏郎が現代劇で演じたのが、「野良犬」や「悪い奴ほどよく眠る」「天国と地獄」などの主人公。

これまでの時代劇の主人公のようなヒーロー像とは全く異なる、ワイルドで都会的なダークヒーローで、戦後という新たな時代の到来を感じさせました。若い頃の三船敏郎は、時代劇にしろ、現代劇にしろ、その圧倒的存在感と男臭さが売りでしたが、歳を経るに従って、大人の男性としての理想像を演じるようになります。「赤ひげ」や「姿三四郎」の矢野正五郎などは、その典型でしょう。

三船敏郎は東宝戦史シリーズで近代史における日本男子の理想像と本懐を演じ切った

三船敏郎は、押しも押されぬ大スターとなりました。やがて、主人公というよりは、その映画にとっての重石的なポジションで、重厚な演技を見せるようになります。東宝映画の戦史シリーズ「日本のいちばん長い日」での陸軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)や、「連合艦隊司令長官 山本五十六」「日本海海戦」の東郷平八郎など、まさに近代史を彩る、日本男子の理想と本懐を見事に演じました。

また、石原裕次郎とともに制作した「黒部の太陽」や、勝新太郎との「座頭市と用心棒」も、三船敏郎の存在なしには成功しなかったでしょう。三船敏郎は、以後、晩年に至るまで、日本映画の大作とされた作品には必ず出演していたといってよく、文字通り、日本映画に欠かせない俳優でした。

三船敏郎が2016年ついに果たしたハリウッド殿堂入り

三船敏郎は、2016年11月14日、ハリウッドの殿堂(ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム)入りを果たし、その名が刻まれた星形プレートが、ハリウッドの歩道に埋め込まれました。日本人では、早川雪洲、マコ岩松、そしてゴジラに次ぐ快挙です。三船敏郎の殿堂入りは2594番目。映画部門では、クエンティン・タランティーノ監督や、俳優のマイケル・キートンらが同時に選ばれています。

授賞式には、三船敏郎の孫で、俳優の三船力也が参加しました。三船敏郎の殿堂入りは、黒澤明監督作品「七人の侍」のリメイク版であった「荒野の七人」が、「マグニフィセント・セブン」として新たにリメイクされ、2017年1月に公開されるというタイミングもあったのかもしれません。とはいえ、「七人の侍」そして「荒野の七人」が、娯楽作品のお手本として、ハリウッドで今も高く評価されていることも、大きく影響していると考えられます。

また、三船敏郎は、日本との合作も含め、海外の映画に20本近く出演している点も見逃せまないでしょう。たとえば、日本の侍が、西部を舞台に豪快な殺陣とアクションを繰り広げる「レッド・サン」は、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンとの共演が話題となりました。「太平洋の地獄」という、文字通り、太平洋の孤島に流れ着いた日米の兵隊2人が、お互いが生き残るために、力を合わせるという異色作にも出演しています。しかし、三船敏郎以降、日本の映画人が、ハリウッドで本格的に活躍するようになるのは、北野武や渡辺謙が登場するまで、30年以上待たねばなりませんでした。

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