三木清「人生論ノート」の名言集!出身地やプロフィールは?
三木清は哲学界の巨人、西田幾多郎門下の日本を代表する哲学者
1970年代初め、男子大学生の軽薄な教養趣味を表わしたのが、「右手にジャーナル、左手にマガジン」という言葉でした。ジャーナルとは、「朝日ジャーナル」という朝日新聞が発刊していた左派系の硬派週刊誌であり、マガジンとは、漫画の「少年マガジン」を指します。さらにさかのぼること四半世紀。文化や教養というものに飢えていた戦後の若者たちに爆発的に読まれたのが、三木清の「人生論ノート」です。
三木清は、1897年、兵庫に生まれ、第一高等学校から京都帝国大学に進み、日本哲学界の巨人、西田幾多郎に師事した京都学派の哲学者です。三木清による「人生論ノート」は、彼が若い人たちのために書いた哲学の入門書、というよりは、思考することや人生についての指南書というべき小冊でした。
三木清の「人生論ノート」が戦後を生きる若者たちの人生の指針となった
平明かつみずみずしい言葉で綴られた三木清の「人生論ノート」は、国家という指針を失った若者たちに多くのヒントを与えてくれました。いくつかご紹介しましょう。たとえば「成功」については、「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった」と喝破。「自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである」と続けています。
また孤独については、「物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである」と定義。「我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに応える自己の表現活動においてのほかない」と綴られ、読む者の思索を深めます。このように人生におけるさまざまなテーマが短文にまとめられた「人生論ノート」は、読んだ者に深く思考を促す警句が散りばめられているのです。
三木清が獄中死した死因の波紋!遺稿「親鸞」とは?
三木清は終戦後1カ月も過ぎて獄中で病死していた?!
三木清が、戦後注目を集めたのは、哲学者としての非業の死がありました。戦時中、三木清による軍部の独走に対する批判的な言説は、軍部の不興を買うことに。1945年6月12日、治安維持法違反の被疑者だった高倉テルを仮釈放中にかくまったという嫌疑で拘留処分を受けます。
劣悪な衛生状態の豊多摩刑務所に収監された三木清は、戦争が終わって1カ月以上も経った9月26日、独房で腎臓病により病死している姿が発見されました。まだ48歳の若さでした。三木清の死によって、敗戦が決してもなお卑劣な拘禁制度を続けていた事実が明るみになったことで、治安維持法の撤廃が急がれたとは悲しい話です。
三木清が晩年研究の対象に選んだのは「親鸞」だった!
三木清の実家は真宗でした。それもあってか、旧制高等学校時代にもっとも感銘を受けた書物は、親鸞の「歎異抄」で、「万巻の書の中から、たった1冊を選ぶとしたら『歎異抄』をとる」とまで語っています。京大で西田幾多郎の門下となり、ドイツで、パスカルをはじめ西洋哲学を学び、マルクスの共産主義にも触れていた三木清は、晩年、親鸞の研究に取り組んでいました。
三木清は、その遺稿の中で、日本の哲学者の多くが禅に傾倒していたのに対し、平民的な法然や親鸞による仏教の教えのほうが、はるかに親しみが感じられ、いつかその哲学的意義を闡明してみたいと語っていました。三木清の、この親鸞に対する研究が続けられていたならば、浄土真宗は言うにおよばず、仏教に対する日本国民の理解は、戦後より深まっていたかもしれません。
三木清をはじめ日本の栄哲を手軽に学ぶことができる文庫本が創刊されて2017年で90周年!
21世紀も20年近く過ぎた今、日本人の教養を育んできた岩波文庫が発刊90周年を迎えます。少なくとも昭和の時代までは、文庫本1冊でも持って独り旅に出掛けるのが、大学生や若者にとっての教養趣味的なステータスでした。新潮社や岩波出版から文庫本が創刊されたのは1927年、昭和元年のことでした。
同年7月10日、岩波文庫は、東京日日新聞朝刊の半ページを使い、三木清草案による「読書子に寄す」と題された創刊の辞を掲げています。文の冒頭に記されているのは、「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む」の一文。岩波文庫の現在までの累計刊行数は、約6000点。
中でも、「ソクラテスの弁明・クリトン」や、漱石の「坊っちゃん」、ルソーの「エミール(上)」、「論語」といった書目が販売部数の上位を占めているそうです。もっとも、三木清の「人生論ノート」は、1947年に創元社から出版されて後、1954年に新潮社文庫に収録されると、今日まで長くロングセラーとなっています。日本において、ごく普通の国民が、政治や経済、宗教や人生について気安く学ぶことができるようになったのは、この文庫文化が根付いてこそでした。
読者離れが言われて久しい現在、三木清をはじめ、近代日本の永哲たちの思索に改めて触れてみることこそ、この混迷の時代を切り開く大きな指針となるのではないでしょうか。