宮本和知の亭主関白はモラハラレベル!?再婚妻・若柳きららと子供の豪邸生活

宮本和知の亭主関白はモラハラレベル!?再婚妻・若柳きららと子供の豪邸生活

宮本和知は気さくで明るいキャラだが実は亭主関白だった!その行為はモラハラレベルか?

宮本和知(みやもとかずとも)は、元プロ野球選手。現役引退後は、タレントやスポーツキャスターなど多方面で活動中です。現役時代は、読売ジャイアンツの左の中心投手として活躍した経歴を持ち、気さくで明るいキャラと笑顔が人気でした。

その感じとは裏腹に、実は亭主関白であるという宮本和知。その亭主関白ぶりは筋金入りで、「モラハラ」レベルに達しているといいます。宮本和知の亭主関白が、テレビのバラエティ番組で暴かれたことは1度や2度ではないため、信憑性はありそうです。

たとえば、「リビングでTVを夫婦で見ていても、眠くなると、リビングにいる妻に構わず消灯して寝室に行く」「掃除機の音を嫌う夫に配慮し、妻は夫の不在時でないと掃除機が使えない」「味噌汁にこだわりを見せ、具として入れた卵が茹ですぎと文句を言う」「指輪をあげておらず、結婚式も挙げていない」などなど。

現在の妻と結ばれる前に、離婚歴が1度ある宮本和知は、その理由を「子育ての考え方の違い」としていました。しかし本当のところ、宮本和知の亭主関白ぶりが災いしたと考えるのは行き過ぎでしょうか?

宮本和知が再婚した12歳年下の美人妻との間に子供がいた!豪邸は1億2000万円!

宮本和知が再婚した美人妻も話題です。宮本和知の美人妻とは、若柳きららという正派若柳流の日本舞踊家で、宮本和知の12歳年下。埼玉の日本舞踊家、若柳彦三衛門の長女として生まれたといいますから、さぞかし礼儀作法も厳しく仕込まれ、立ち居振る舞いも絵になる女性なのでしょう。

1998年には、ミスアジアパシフィック日本代表に選ばれた経歴も持っています。宮本和知と再婚妻・若柳きららが知り合ったきっかけは、日本テレビ系のBS番組での共演だったとか。2010年11月には女の子を授かっています。そんな宮本和知が愛の巣として購入した豪邸も話題となっています。

宮本和知の豪邸があるのは、別荘地としても知られる、神奈川県葉山町。自宅兼事務所の目的で購入した新築物件ですが、購入額は1億2000万円と伝えられています。リビングにはイタリア製のオーダーメイドソファーが置かれ、バスルームは浴槽2個とサウナが完備。寝室とキッチンは、それぞれ畳15畳分の広さだそうですから、文字通りの豪邸といえます。

宮本和知の再婚に元妻の娘・沙耶乃は?ジャイアンツ入団までの経歴

宮本和知の再婚決断は元妻の娘・沙耶乃の後押しだった!

宮本和知が、約8年間の結婚生活にピリオドを打ち、元妻と離婚したのは1996年のことで、当時32歳でした。元妻との間にも、娘を1人もうけていた宮本和知。離婚当時8歳だった娘の名前は紗耶乃といい、宮本和知が引き取り、男手で娘を育てています。とはいっても、男一人で子育てするのは難しかったのでしょう。宮本和知は、郷里から両親を呼び寄せています。

月日は経って2008年9月、娘の紗耶乃は、無事に成人。宮本和知は、テレビ番組で知り合った交際相手との再婚を真剣に考えていましたが、元妻との間に生まれた一人娘の心情を考えて躊躇していました。しかし、悩む宮本和知の背中を後押してくれたのは、他ならぬ娘の紗耶乃だったといいます。この時の心情を、宮本和知は、「胴上げよりもうれしい」と表現したそうです。

宮本和知のオリンピック日本代表だった経歴とは!ジャイアンツ入団して胴上げ投手に!

宮本和知の現役時代の軌跡をプロフィールで振り返りましょう。宮本和知は、1964年2月13日生まれの52歳。山口県下関市出身で、小学校時代はサッカー少年でしたが、中学校でサッカーから野球に転じます。下関工業高在学時にピッチャーに転向した宮本和知は、高校時代は甲子園出場の機会もないまま卒業。社会人野球の川崎製鉄水島製鉄所で野球部に入り、エースとして都市対抗野球初出場の原動力となります。

その活躍が評価され、1984年のロサンゼルスオリンピックで野球日本代表に選ばれると、金メダル獲得に貢献しました。同年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから3位指名で入団を決めますが、入団発表前日にサッカーで足首をケガし、入団発表を欠席するというトホホな失態を演じています。即戦力が期待されての入団でしたが、数年間は伸び悩んだ宮本和知。

転機となったのは1989年で、藤田元司監督のもとで、シーズン後半から先発ローテーション入りしました。時速140km台後半の球威あるストレートと、縦に割れるカーブを武器に活躍し、シーズン5勝。嬉しいプロ入り初完投・初完封を記録するなどノリに乗って、リーグ優勝、日本一ともに胴上げ投手になっています。翌1990年には、先発ローテーションの一角としてキャリアハイの14勝を挙げ、2年連続リーグ優勝で胴上げ投手に。

1991年にも10勝を挙げながら、その後はやや停滞するも、1996年には、故障で主力を欠く先発陣を支え、リーグ優勝に大きく貢献して存在感を発揮した宮本和知。しかし、1997年に追突事故で頚椎を痛めたことも影響し、同年限りで現役引退しました。

宮本和知の13年間の通算成績は、287試合に登板して66勝62敗4セーブ、防御率3.60。卓越したリーダーシップで、投手陣のまとめ役として投手会長を長年務め、選手会長としても奮闘した宮本和知。引退後は明るいキャラクターを生かして、タレント、スポーツコメンテーターとして活躍しています。

宮本和知の記憶に残る存在感は強運の証!視聴者と同じ「下から目線」を心掛ける日々!

宮本和知は、現役時代に傑出した記録を残しているわけではありませんが、記憶に残るプレーヤーとして存在感を放っています。人生の転機となったのが、高校2年時のピッチャー転向でしょう。高校卒業後は、社会人野球の川崎製鉄水島製鉄所でエースとして実績を積み、1984年のロサンゼルスオリンピックで公開競技として初開催された野球で、日本代表メンバー入りし、金メダル獲得に貢献しました。

オリンピックの活躍で注目された宮本和知は、同年秋のドラフト3位指名で巨人入り。数年は鳴かず飛ばずでしたが、リーグ優勝、日本シリーズ優勝ともに胴上げ投手になっているように、とにかく強運を引きつける力を持っています。防御率こそ3.69と決して相手を抑えた印象はありませんが、打線の援護に恵まれて勝ち星を量産、これも強運の証と言えます。これ以降の成績は低迷し、通算66勝に終わりましたが、やはり胴上げ投手になったインパクトは強烈でした。

明るいキャラとリーダーシップもあって、ファンからも愛される存在だった宮本和知ですから、引退後のタレント活動が軌道に乗っているのも当然のこととはいえ、これまた強運。多忙な日々を送っている宮本和知は、情報番組への出演機会も多く、分からないことは調べる毎日だといいます。

常に心掛けていることは、視聴者と同じ「下から目線」。野球を題材として取り上げるときも、「~選手」と敬意を表すようにしゃべっているそうです。人柄も良く、多忙ながら充実した第二の人生を過ごせているようですから、あとは亭主関白が度を過ぎないように注意というところですね。

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