村田修一は人呼んで「引退試合クラッシャー」!新生児医療支援は長男の生い立ちが理由だった

村田修一が持つ記録を総まとめ!男・村田は引退試合でのKYぶりがハンパなかった!

村田修一は横浜球団新記録の46本塁打!巨人軍で日本一貢献も苦難の宿命に!

読売巨人軍のスラッガー村田修一(むらたしゅういち)。1980年12月28日生まれの村田修一は、松坂大輔を筆頭に注目された「松坂世代」の一員で、その中で最も実績を残している選手です。これまでに、本塁打王に輝くなど、数々の記録を残してきました。身長177cmで、体重は92kg、右投げ右打ち。通算成績は、14年間で1835試合に出場して、6544打数1765安打346本塁打1065打点、打率2割7分(2016年シーズン終了時点)です。

日大時代の20本塁打は大学通算記録歴代2位と、大学球界屈指の強打者の呼び声も高く、2002年のドラフト自由獲得枠で、横浜ベイスターズに入団。ルーキーイヤーは104試合に出場し、本塁打25本の記録を残して注目されます。その後、横浜在籍期間中の9シーズンは、2007年から2年連続して本塁打王タイトルを獲得。特に2008年は、球団新記録の46本塁打を放ち、自身初の打率3割を記録するなど、和製大砲として大活躍しました。

2011年シーズン終了後に、FA権行使で巨人移籍を表明し、移籍初年度の2012年は、チームの日本一奪回に貢献するなど、中軸選手として活躍します。しかし、層の厚い巨人軍では苦難を強いられるのが移籍選手の宿命で、村田修一もその例に漏れず、外国人選手や若手に押されて冷遇を受ける傾向にあるのも事実です。

村田修一は他人の引退試合をぶち壊す?!人呼んで「引退試合クラッシャー」!

村田修一は、他人の引退試合をぶち壊すKYぶりでも有名です。人呼んで「引退試合クラッシャー」!しかも、そのぶち壊しっぷりはハンパなく、ネットでは語り草になっています。特に有名になったのが、2007年の佐々岡真司投手(広島)の引退試合。村田修一への投球はボール先行で、あわやフォアボールとなりかかっていました。

そこで、村田修一が、「フォアボールで現役に幕を下ろさせるくらいなら」と打っていった結果は、何と特大ホームラン。初の本塁打王タイトルを手繰り寄せる貴重な一打でしたが、花道を飾るべき相手に一発をお見舞いしたことで物議を醸しました。

もう一つ、村田修一が名を馳せたのが、2010年の矢野燿大捕手(阪神)の引退試合です。9回に、同世代の藤川球児から逆転3ランホームランを放った村田修一は、自力優勝がかかっていた阪神に引導を渡しました。これにより、村田修一は、完全に「KYなヤツ」と、阪神ファンから非難が飛び交う結果に。

もっとも、村田修一のために弁護しておくと、引退試合ぶち壊しのKYぶりばかりではなく、粋な配慮を見せた試合もあります。2007年の鈴木健内野手(ヤクルト)の引退試合では、明らかにファウルフライという打球を見送り、アウトにしませんでした。結果、その打席はセンター前ヒットとなり、最高の花道を演出する結果になりました。ちなみに、他人の引退試合となるとなぜか気合満点となる村田修一は、打率5割近くを打っています。

村田修一が横浜から巨人に移籍した経緯や成績は?新生児医療を支援する理由とは?

村田修一の巨人移籍決断の決め手は「優勝を目指せる環境」!本拠地での胴上げを見せつけられ横浜残留の気持ちに変化!

村田修一が、9年間在籍した横浜に別れを告げ、巨人へ移籍したのが2011年のシーズンオフのことでした。そのシーズンは、横浜の頼れる主将として144試合にフル出場し、20本塁打70打点、打率2割5分2厘の成績を残しています。なぜ、慣れ親しんだ横浜から巨人への移籍という経緯をたどったのでしょうか?プロ入り以来プレーしてきた横浜を去るのは、本人にとっても苦渋の選択だったはずです。

村田修一本人の説明によると、「プロである以上は勝ちたいという欲求があるので、優勝争いをしたいという考えを捨てきれなかった」というのが大きな理由でした。彼が在籍していた2011年当時の横浜は、4年連続最下位と、優勝争いの蚊帳の外。オフにFA権を行使することは決まっていましたが、横浜に残留する可能性も残されていました。

そんな村田修一の揺れ動く気持ちに決着をつけたのは、本拠地・横浜スタジアムでの最終戦です。目前で中日ドラゴンズのリーグ優勝を見せつけられた村田修一は、「あの胴上げの一員に加わりたいという思いが強くなった」と、勝利への欲求に火がつく結果に。

こうして、「優勝を目指せる環境でプレーしたい」という強い思いにより移籍を決断し、2年総額5億円の契約条件で巨人移籍を表明しました。移籍初年度の成績は、打率2割5分2厘、本塁打も自己ワースト記録の12本と苦しんだものの、76代目の4番打者を任され、ベストナインを獲得するなど活躍しています。

村田修一の新生児医療支援は長男の生い立ちが理由だった!医療現場の深刻な現状に立ち上がる

村田修一は、新生児医療支援への熱心な取組みでも知られています。その理由は、彼の長男の生い立ちがきっかけでした。2006年に生まれた長男は、当初の予定より3カ月早く未熟児として誕生したため、一時は生命の危険も覚悟しなければならないほどでした。

NICU(新生児集中医療室)に入院したものの、経過は一進一退。その際に、村田修一は、本来ならば救えるはずの新生児の命が、NICUのベッドや人員不足によって危険に瀕しているという深刻な現実を初めて知ります。幸いにも、NICUでの懸命の治療が実り、生命の危機を脱した村田修一の長男は、元気な生活が送れるほどに育ちました。

こうして、新生児医療の深刻な現状に危機感を覚え、2008年から新生児医療の支援に立ち上がった村田修一。試合で挙げた1打点ごとに積み立てた基金を病院へ寄付したり、NICUから退院した子供たちを東京ドームの試合観戦に招待したりするなどの慰問活動を熱心に続けてきました(現在の積み立て基金は、1安打ごとに変更)。村田修一の地道な支援活動を通じて、もっと多くの人に新生児医療の現実を知って欲しいものです。

村田修一の横浜復帰が現実味を帯びてきた?昨シーズンのチーム2冠王も今シーズンは控えに!

勝利の味を求めて巨人へFA移籍して、今シーズンで6年目になる村田修一ですが、巨人での存在感が希薄になりつつあります。年間フル出場すること3回、移籍初年度は4番も任され、打率3割を打つこと2回。選手会長にも任命され、リーダーシップも発揮してきたのに、エラー懲罰で試合途中に帰宅させられたり、絶好のチャンスで代打を送られたり、サードのレギュラーをはく奪されるなどと、散々な仕打ちを受けてきました。

そんな村田修一は今、「ある決意」を胸に秘めていると伝えられています。それは、「今シーズンオフの横浜復帰」。2016年シーズンオフに、母校・東福岡高校野球部の関係者に、「横浜に戻りたい」と胸中を漏らしたと言います。優勝を目指せる環境を求め、いったんは別れを告げたはずの古巣に戻りたいとは穏やかではありません。巨人のユニフォームに袖を通す日々が、彼の心を苛んでいるのでしょうか。

村田修一は、2016年シーズンは、フル出場して、チーム2冠王を遂げ3割も打った実績がすっかり無視され、2017年シーズンは、控えに回されるなど、理解に苦しむ扱いを受けています。巨人には、広澤克実や江藤智など、他球団の右のスラッガーを獲得して使い捨てるという忌まわしい歴史があるのも事実です。彼らも、巨人軍にいなければ、もっと成績の上積みが可能だったでしょう。

一方、村田修一の古巣である横浜は、DeNAが経営母体となり、フロントも一新。戻ることに差し支えはなさそうです。2000本安打達成を見据えている可能性も考えると、今後の巨人の起用方針によっては、シーズンオフにも新たな決断が下されるかもしれません。

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