大谷昭宏は新聞記者からジャーナリストへ!漫画のモデルにもなっていた

大谷昭宏は新聞記者からジャーナリストへ!癌を公表した理由とは?

大谷昭宏は新聞記者からジャーナリストへ!

数々のニュース番組に、コメンテーターとして引っ張りだこのジャーナリスト大谷昭宏(おおたにあきひろ)。早稲田大学政治経済学部卒業後の1968年に、読売新聞大阪本社に入社しました。

徳島支局に勤務していた大谷昭宏は、1970年に大阪本社の社会部(警察部)へ移動となり、1972年からは大阪府警捜査一課を担当。そこで、社会部長として次々にスクープをものにし、後に伝説のジャーナリストと呼ばれるようになる黒田清と出会ったことが、後の人生に大きな影響を与えました。

1987年に、黒田清が読売新聞社を退社した際には大谷昭宏も共に退社。2人を中心に「黒田ジャーナル」が立ち上がります。その後、2000年に黒田清が逝去したため、「黒田ジャーナル」は一旦解散しますが、大谷昭宏は個人事務所を設立して黒田清の意志を引き継ぎました。大谷昭宏は今でも恩師・黒田清のことを「黒さん」と呼んで慕っています。

大谷昭宏が癌を公表した理由とは?

情報番組やニュースでコメンテーターとして活躍中の大谷昭宏が、2014年の一時期、テレビから姿を消したことがありました。この時、実は、肝内胆管がんに罹患していた大谷昭宏。「沈黙の臓器」と呼ばれる肝臓は、病気の早期発見が難しいと言われる臓器です。

大谷昭宏は、年に2回受けていた人間ドッグでがんが見つかりました。幸い早期発見だったこともあって、手術は無事に成功。目視できる範囲で全ての腫瘍を取り切ることができたそうです。死を身近に感じた大谷昭宏は、子供がなく、後は妻に全て委ねなければならないこともあり「偲ぶ会など一切せずに密葬にして欲しい」と、病についてだけでなく、自らの葬式についても公に発言しました。

大谷昭宏は漫画のモデルにもなっていた!兄弟で司法制度改革に参加?!

大谷昭宏は漫画のモデルにもなっていた!

読売大阪の社会部で事件記者だった大谷昭宏には、ジャーナリスト転身後も「事件記者としての生き方」や「冤罪の恐怖 人生を狂わせる『でっちあげ』のカラクリ」、世間を騒がせた「グリコ・森永事件―最重要参考人M」など、評価の高い著書が数多くあります。

その中でも特筆すべきは、原作担当の漫画「こちら大阪社会部」でしょう。この漫画の主人公である谷一平は、大谷昭宏自身をモデルにした人物です。実は東京出身の大谷昭宏が、大阪勤務時代に培った大阪弁を巧みに使い分けていることも話題に。また、漫画の巻末にとっておきの「大谷昭宏の取材エピソード」が収録されていたことでも人気を博しました。

大谷昭宏は兄弟で司法制度改革に参加?!

2002年2月から2007年5月まで、17回に渡って開催された最高裁主宰の「明日の裁判所を考える懇談会」に、大谷昭宏と、弟で最高裁判事の大谷剛彦が兄弟で参加していたそうです。しかし、司法制度改革の懇談会に兄弟2人が揃って参加したことで、「最高裁幹部である弟が縁故で兄を招集したのではないか」との憶測が飛ぶことに。その上、参加した委員に報酬が支払われていたことから、弟が「身内に対して経理的手腕を発揮したのでは」との疑惑まで浮上しました。

大谷昭宏が「市民の安全を脅かした」和歌山県警の大失態を厳しく批判!

警察にまつわる騒動が相次いで起こっている昨今、元事件記者という経歴を持つ大谷昭宏が、テレビや新聞でコメントを発表する機会も増えているようです。2018年9月14日には、仙台の交番で、巡査長が刺殺される事件が発生。大谷昭宏は、市民を守る立場が強調されがちな警官たちにも、「守られる」視点からの改善策が必要だと訴えています。

また、翌15日には、和歌山県警が、20代の男性巡査部長が実弾入りの拳銃を落とし、1時間20分後に住民から拾得物として届けられたことを発表しました。問題の巡査部長は、前日行われた自民党総裁選の決起集会に出席した、安倍晋三首相の警備にあたっていたと言います。

今回が初めての要人警護だった巡査部長が、最後尾の車両に乗っていた最中に、誤って拳銃ケースの留め金を窓際に引っ掛けたため、拳銃が窓から落下したというこの事件。発生後6時間半が経過してから記者発表したことに対し、大谷昭宏は、「市民の安全を脅かした和歌山県警の大失態だ」と厳しく言及し、「周辺警備の見直しをすべき」との問題提言をしました。

ここまで警察組織の在り方に具体的に物を申せるのは、著書「おかしいぞ!警察・検察・裁判所」で、これら三機関の堕落に論及し、元事件記者として警察の細部まで知り尽くした大谷昭宏だからこそでしょう。今後も、時の政権や主流の意見になびくことのない報道や批評活動を続けていってほしいものです。

関連記事

ページ上部へ戻る