田部井淳子が女性だけでエベレスト登頂を目指したワケ!夫や息子は?
田部井淳子が世界初の女性だけでエベレスト登頂を目指したワケとは?
田部井淳子といえば、女性登山家の先駆けです。女性だけで編成された登山隊を結成し、1975年には、世界最高峰といわれるエベレストに女性として世界で初めて登頂に成功したことでもよく知られています。田部井淳子が女性だけでエベレストを目指したのは、非常に単純な理由がありました。
女性だけであれば、男性との混合チームと比べ、体力や体格に差が少ないためペース設定がしやすく、着替えやトイレ等の気兼ねもないからです。少しのミスが命とりとなる登山では、この「女性だけ」という選択が、大きな要因でした。
田部井淳子のエベレスト登頂を支えた夫!息子もいた!?
田部井淳子が初めてのエベレスト登頂を果たした当時、彼女は36歳。実は、当時すでに結婚しており、子供もいる、ママさん登山家でした。田部井淳子を支えたのは、夫の田部井政伸氏。2人の間には娘と息子がいます。2歳年下の夫・田部井政伸と田部井淳子は、20代の頃からの山仲間。
夫ももともとは登山家でしたが、登山中に凍傷で足の指を失い、登山家の道を断念したそうです。海外での登山に挑戦しようとする妻の田部井淳子に対し、「子どもは産んで行けよ」と言うだけで、決して反対せずに裏で挑戦を支えてくれているそう。田部井淳子の息子は、現在、駒沢大学スキー部のコーチを務めているともいわれています。
田部井淳子はがんで余命宣告されていた!現在の病状は?
田部井淳子は二度もがんに!手術後10日で登山!余命宣告も!
田部井淳子は、テレビ等でも元気そうな笑顔を見せていますが、なんとこれまでに、2度もがんを経験しています。最初のがんは2007年。アルメニアでの登山中に、乳房に違和感を覚え、帰国後に診察を受けると、乳がんと判明。幸い転移はしておらず、すぐに手術を受けて、なんと手術の10日後にはバルト三国の登山ツアーへ出発。
問題なく登山をしたそうですから、ものすごいタフさです。そして、田部井淳子2度目のがんは2012年のことでした。腹部に断続的な痛みを感じて受診すると、がん性腹膜炎であることが判明。すでに他の臓器にも転移しており、ステージは3Cでした。そこで、厳しすぎる余命宣告を受けることになります。
田部井淳子をおそった余命宣告!がんの現在の病状は?
田部井淳子は、腹腔内にがん細胞が散らばるという「がん性腹膜炎」にかかり、医師から「余命3カ月」という衝撃的な余命宣告を受けます。その後、抗がん剤による治療が始まり、手術も受け、さらに抗がん剤の治療が続きました。8カ月間の治療を乗り越えた田部井淳子は、完治とはいきませんが寛解し、最悪の状況を脱して、がん病状は小康状態を保っているそうです。
抗がん剤治療にあたり、しびれや脱毛等、さまざまな副作用に襲われたそうですが、医師から「それでも、普通の生活をしてください」との言葉を受け、それまでと変わらず、無理のない範囲で山を登り続けた田部井淳子。それが、つらい抗がん剤のストレスを軽減してくれたのかもしれません。
田部井淳子の不屈の挑戦を支えた山への想い
田部井淳子は、3カ月という余命宣告を受けた2012年からすでに4年が経過し、現在76歳になりました。70代も後半を迎えても、その活動はまだまだ盛んです。2012年からは、東日本大震災を経験した東北地方の高校生に、自らの力で富士山に登ることで元気と勇気をもらってほしいと、寄付をつのって富士登山へ連れて行く「東北の高校生の富士登山」を毎年主催しています。
今年2016年も、田部井淳子自らが山道に立ち、登山に挑戦する高校生たちを励ましました。田部井淳子も福島県出身。東北出身者として、少しでも復興支援に尽力したいという想いがあるのでしょう。
また、田部井淳子自身が、登山によって救われ、勇気や元気をもらってきたことが、このような活動を支える信念になっていると思われます。
田部井淳子の最初の登山との出会いは小学校4年生でした。その頃の田部井淳子は体が弱く、運動も大の苦手。特に、人と競争する徒競走が嫌で、運動会は逃げ出したいほどだったといいます。とても、将来登山家になる女性とは思えませんね。
小学生だった田部井淳子は、先生の呼びかけで那須への登山に参加することになりました。下界とは違う風景が広がる山は驚きに満ちており、自らの肌で感じた体験は、忘れられないものになったそうです。登山は競争ではなく、足が遅くても、一歩一歩上っていけば、誰でも頂上へたどりつけるということも嬉しい発見だったといいます。
この時の山への想いが再び蘇ったのが、大学時代。華やかな東京に憧れ、昭和女子大学へ進学した田部井淳子ですたが、東京のスピードについていけず、地方出身というコンプレックスも重なり、体調を崩してしまいます。そんな中、友人に誘われて出かけた奥多摩への登山で、子供の頃に感じた山での感動が蘇りました。言葉のなまりや、地方出身というコンプレックスがたいしたことのないものと思え、山では自然にふるまえる自分がいたという田部井淳子。その登山の帰りには、「東京周辺の山々」という本を買い求め、週末毎に山歩きをする日々が始まりました。
この登山との「再会」が、田部井淳子に勇気や自信をあたえ、後に世界で女性初のエベレスト登頂、七大陸最高峰登頂といった偉業をなしとげることにつながります。
そして、登山は田部井淳子に、がんと闘う力も与えてくれたようです。がん宣告を受けたならば、その事実にうちのめされてしまうこともあるでしょう。しかし田部井淳子は、登山で何度も死の恐怖を味わってきた経験から、「これは現実。受け止めないと、前に進んで行けない」「雪崩の下敷きになって遭難しかけた時と比べたら、清潔なベッドの上で横になり、医師が何人もいて、最先端の治療を受けられる」と、自身の困難を受け入れ、前向きに捉え直すことができたといいます。
この田部井淳子のタフさ、前向きさは、登山で培ってきた揺るぎないものといえるでしょう。さすが、世界で初めての偉業をいくつも成し遂げてきた偉人!常人では、そう簡単には真似できそうには思えませんが、山ブームの昨今、そのお手本として、田部井淳子には今後も元気に活躍してほしいものです。