手嶋龍一のプロフィール!炭鉱経営者だった父親とは?株で大儲け?!

手嶋龍一のプロフィール!炭鉱経営者だった父親とは?株で大儲け?!

手嶋龍一の「インテリジェンス」なプロフィールとは?

手嶋龍一が、慶應義塾大学大学院の教授として、外交ジャーナリストの教鞭をとっているシステムデザイン・マネージメント研究科は、同大学が150周年を迎えることを機に、創設者の福沢諭吉が「今の時代に求めている学科」を想定して設立されました。システムデザイン・マネージメント研究科が扱うのは、理系と文系の壁を取り払い、原子力から東京証券取引所、外交問題に至る幅広い分野での巨大システム。

教授の手嶋龍一曰く、今の日本には「選りすぐられた情報力」=「インテリジェンス」が必要だと強く訴えます。北海道芦別市出身、1949年生まれの手嶋龍一は、慶応大学経済学部卒業後にNHKに入局。政治部を経て、1987年にワシントン支局に赴任します。1995年から二年間ボン支局長を務めた後、2005年までワシントン支局長を務めましたが、手嶋龍一の名を一躍世に広めたのは、2001年に起こった「アメリカ同時・多発テロ事件」でした。同事件では、11日間ほぼ不眠不休で、24時間連続の中継放送を担当した手嶋龍一。

アメリカ政府の緊迫した状況を「そのときホワイトハウスは」に掲載、映像としては『NHKスペシャル「一年目の真実」』で、ドキュメンタリー作品として克明に描きました。

手嶋龍一の父親は炭鉱経営者だった!株で大儲けした話とは?

手嶋龍一の父は、北海道の芦別市で中小の炭鉱を経営していました。その昔、石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれた時代に、手嶋の父の元には夜毎と言わず、政治家や右翼の大物、旧日本軍参謀に至るまでさまざまな「時の権力者」たちが訪れたと言います。ある日、顔中炭だらけの炭鉱夫がやって来た時のこと。彼らを上座にすえて、一人一人にお酌をして回る、今まで見たことのない父の姿を目の当たりにした手嶋龍一は「父にとって、この人たちこそが誰よりも大切なのだ」と実感したそうです。そんな父も、手嶋龍一が中学生の時に60半ばで亡くなります。

時代は高度成長期に入りましたが、時代の流れとは逆に、石炭産業は衰退。手嶋龍一の父が所有していた炭鉱株は一旦下落しましたが、日本列島改造論の波に乗って、徐々に上向きに。「ウチは石油に負けたのだから、全部石油株に賭けなさい!」という手嶋龍一の母の鶴の一言で、石炭株を売り払った全資金をアラビア石油に投資したところ、連日のストップ高!証券会社に毎日詰めて、天井で売り抜けた株を換金すると、証券会社のテーブルの上には札束の山ができたそうです!

手嶋龍一が競馬のクラブ法人「キャットクラブ」で代表になった理由とは?

手嶋龍一が代表を務める競馬のクラブ法人「キャロットクラブ」とは?

手嶋龍一に「競馬人」としての顔もあることをご存じでしょうか。元NHKワシントン支局長で、外交ジャーナリスト、作家、慶應義塾大学大学院教授と多才な経歴と顔を持つ手嶋龍一が、一般の競馬ファンも競走馬を持つことができる競馬のクラブ法人「キャロットクラブ」の代表になって6年。この競馬クラブは、日本を代表する愛馬会で、過去に多くのGⅠ馬を輩出してきた名門クラブでもあります。

今年の秋には、3歳牝馬「ハープスター」が、日本で調教された馬として初めて、パリの凱旋門賞に挑戦しました。結果は6着に終わりましたが、日本初の三歳牝馬による果敢な挑戦は、日本競馬界の大いなる歴史の一ページとなったはずです。

手嶋龍一が「キャロットクラブ」の代表になった理由とは?

手嶋龍一は、北海道育ちの道産子。そのため、手嶋龍一にとって、馬はごく身近な存在でしたが、「キャロットクラブ」の会長を引き受けるにあたっては、一人の男性との出会いがありました。その男性とは、ノーザンファーム代表の吉田勝巳。優駿「ディープインパクト」や、「ジェルティドンナ」などの名馬を多数輩出した競走馬生産者です。

馬を欲しいと言う友人との仲介をしたことがきっかけとなり、手嶋龍一家と「吉田ファミリー」との交流が始まりました。いつものように吉田勝巳が手嶋宅を訪れた時のこと。原稿の執筆に追われていた手嶋龍一に、吉田勝巳が「ある用件」を繰り出します。原稿に集中していた手嶋龍一は、余り考えもせず「ハイハイ」と返事をしてしまったところ、その用件が「キャロットクラブの会長を頼みたい」だったとか。

吉田勝巳からの頼み事には大抵「イエス」とはっきり答える手嶋龍一ですが、照れもあるのか「この時のことは余り覚えていない」と本人は語っています。

手嶋龍一が不眠不休で中継した「9.11米国同時多発テロ」の11日間!脳裏に浮かんだのは炭鉱経営者の父の姿

手嶋龍一元NHKワシントン支局長の名を一躍時の人にした「9.11米国同時多発テロ」。その時、ワシントン支局長として、11日間、ほぼ不眠不休で24時間中継を続けた手嶋龍一の脳裏には、炭鉱経営者だった父の姿が浮かんでいました。当時、石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれた最重要燃料とはいえ、採掘作業は、落盤事故を伴う危険極まる難作業。炭鉱作業者にとって、正に命を懸けた大仕事でもありました。

真夜中、落盤事故を知らせるサイレンの中、母の手を振り切って坑内に入っていく父の姿が、この時の手嶋龍一の極限状態とシンクロしたのでしょう。後に石炭産業は衰退し町が寂れていく中で、手嶋龍一は、東京の高校に行く選択肢を拒み、あえて地元に留まります。しかし、この選択が、後にアメリカに赴任した手嶋龍一にとって大きな助けとなったのです。北の炭鉱町で培ったパイオニア精神で、アメリカという新たな天地を求めてやってきた人々の心をぐっと掴むことができたからです。

「パイオニアというのは、一種のゆるがない信念を持っている人」。時の権力に決して屈さなかった父の信念が、日本のパイオニア「インテリジェンス・フィクサー」手嶋龍一の礎になっていることは間違いありません。

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