渡辺智男の伊野商業時代!清原和博との伝説の試合とは?
渡辺智男は伊野商業時代にピッチャーはしない条件だった!同世代のピッチャーに負けないよう速球を磨いた!
渡辺智男(わたなべとみお)は、元西武ライオンズ投手です。高校時代は、伊野商業高のエースとして甲子園初出場にし、全国制覇を達成しました。超高校級スラッガーとして全盛時代だった清原和博から3三振を奪うなど、今なお伝説として語り継がれる快速球投手です。
社会人野球を経てプロ野球入りを果たし、黄金期を迎えた西武投手陣の先発ローテーションとして活躍しました。渡辺智男は、1967年6月23日生まれの49歳。高知県高岡郡佐川町出身で、身長178cm、体重80kg、右投げ左打ちです。イチゴ栽培などを手掛ける農家に生まれ育ちますが、中学校時代にヒジを剥離骨折。そのため、ピッチャーはしないという条件付きで、伊野商業高校に進学しました。
しかし実際は、2年の秋にはエースナンバーをつけています。高知県内では、高知商業の中山裕章(のち横浜大洋など)ら同世代のピッチャーに負けないように速球に磨きをかけ続けたと伝えられている渡辺智男。西武ライオンズには、同姓の渡辺久信がいたこともあり、愛称は「ナベトミ」でした。プロ通算成績は、実働8年間で、123試合に登板し、45勝40敗2セーブ防御率3.73を記録しています。
渡辺智男が強打のPL打線を相手に堂々のピッチング!清原和博を3三振にねじ伏せた試合は伝説に!
3年春で選抜高校野球大会初出場を決めた、伊野商業。全国大会進出は、同校始まって以来の快挙でした。チームの目標は「1回戦突破」でしたが、チーム打率4割を超えた東海大浦安に5-1で完勝して1回戦突破を果たします。この勝利でガチガチだったチームの緊張がほぐれ、落ち着くことができたとか。快進撃を続けるチームの前に準決勝で立ちふさがったのがPL学園です。
当時のPL学園は、4番打者の清原和博とエース桑田真澄の「KKコンビ」を擁し、優勝候補の呼び声高い強豪でした。PL学園は、高校球界史上最強にランクされるいわば横綱。圧倒的有利が噂されたPL学園は、初出場の伊野商業に対して、ピッチャー対策も特に講じることはなかったようです。それだけ自信満々だったということでしょう。しかし、勝負というのはふたを開けてみないと分からないものです。
結果は、3-1のスコアで伊野商業が勝利し、決勝戦へ駒を進めました。この時、渡辺智男は、強打のPL学園を相手に堂々のピッチングを見せています。ハイライトは、。怪物と恐れられた清原和博をねじ伏せたことで、今もなお伝説の名試合として記憶されています。
もちろん、渡辺智男の名を一躍全国に知らしめることに。これで完全に勢いに乗った伊野商業は、決勝戦で当たった帝京を制して初優勝を果たします。清原和博もよほど3三振が悔しかったのか、夏の甲子園でのリベンジを熱望し、「次は絶対に打つ」とメッセージを送ったほどでした。しかし、高知県大会決勝で高知商業の前に屈した伊野商業は敗退。PL学園との再戦はなりませんでした。プロ入りして清原和博とチームメイトになったというのは、何やら因縁めいたものを感じさせます。
渡辺智男の伊野商業卒業後の進路!プロ野球引退後の現在は?
渡辺智男は高校卒業後の進路はNTT四国へ!西武からのドラフト指名は囲い込み説も!
伊野商業時代には、「甲子園優勝」という栄誉を手にした渡辺智男ですが、高校卒業後の進路は、社会人野球を選択しています。3年間在籍したNTT四国は、都市対抗に出場するレベルにあり、渡辺智男自身、1988年の大会初戦では勝ち投手になっています。この年は、ソウルオリンピック開催に伴い、日本代表にも選出されました。本来ならば、即戦力候補として、各球団とも指をくわえて見ているはずがありません。
複数球団からのドラフト指名があって当然のところでしたが、渡辺智男は、オリンピック直前の7月に右ひじを故障していたことからプロ入り拒否を宣言。ひじの状態が深刻なために手術に踏み切るという情報が伝わり、各球団とも指名を見送ったはずでした。
その中で、ドラフト1位指名に踏み切ったのが西武ライオンズです。もっとも、彼の右ひじ手術を担当したのが西武のチームドクターだったため、この指名に関しては、西武の囲い込み説も有力視されました。西武側は、専属トレーナーをつけるなどの支援体制を条件に説得を続け、渡辺智男も、最終的には態度を軟化させて西武への入団を決意したそうです。
渡辺智男はプロ入り3年連続2桁勝利も制球難で低迷!引退後は球団スカウトに転身!
プロ1年目のキャンプは、右ひじ周辺の筋肉強化などのリハビリメニューに終始した渡辺智男。そのかいあって回復し、シーズン途中から1軍昇格すると、先発を任されるようになりました。初登板こそ厳しいプロの洗礼を浴びてノックアウトされたものの、続く登板機会では完投し、先発ローテーション入りして、勝ち星を重ねていきます。
19試合登板で10勝7敗をマークする活躍で、惜しくも新人王は逃したものの、高い評価が寄せられました。翌1990年には、開幕から先発ローテーションを果たし5連勝。オールスターゲームにも初出場しています。24試合で13勝7敗は、自身のキャリアハイとなる成績でした。
余勢をかって、巨人との日本シリーズ第3戦では、史上8人目となる初登板初完封の快投を見せます。1991年には、11勝、防御率2.35で、最優秀防御率タイトルを獲得するなど、プロ入り3年連続の2桁勝利を記録して前途洋々に見えました。運命が暗転し始めたのは翌1992年のことです。
制球難と、右ひじ痛再発に苦しめられた渡辺智男は、著しく精彩を欠きます。続く1993年も制球難で1軍登板がなく、シーズンオフには福岡ダイエーへ移籍。一時は復活するかに見えましたが、投球は安定することなく低迷し、再起を図るべくサイドスローに転向するなど試行錯誤を続けますが、かつての輝きを取り戻すことはありませんでした。
1997年オフに金銭トレードで古巣の西武に復帰するも、1軍登板することなく1998年限りで現役から引退。現在は、西武スカウトに転身し、未来のエースを探して飛び回る日々が続いています。
渡辺智男を駆り立てた清原和博との「約束」!後々まで語り継がれる32年前の快投!
伝説として今も語り継がれる1985年春のセンバツ準決勝。「KKコンビ」清原和博と桑田真澄が君臨するPL学園と伊野商業のカードは、圧倒的に「PL学園有利」の下馬評でした。しかし、伊野商業のエース渡辺智男が清原和博から3三振を奪うなど、王者PL学園を圧倒し、3-1で大金星を挙げる結果に。
その年の夏には、伊野商業とPL学園のリターンマッチ実現が待望されていました。一番待ち望んでいたのは、誰であろう、3三振に打ち取られた清原和博です。「次は打ったる。絶対に甲子園へ出て来い」というメッセージを送るほど、渡辺智男との対戦を熱望していました。
このメッセージに対し、「夏は暑いんで、もういいです」とあっさり返した渡辺智男。もちろん本音ではなく、照れ隠しから出た言葉でしたが、スポーツ紙には、この言葉がデカデカと載ってしまいました。渡辺智男は、「あれには参った。思ってもなかったし、まして新聞に載るなんて考えもしてなかったから」と振り返っています。
かくなる上は、甲子園出場を決めて清原和博の挑戦に応えるしかありません。高知大会の初戦で右肩にピッチャーライナーを受けたときには、アンダースローに切り替えてまでマウンドを守り抜きました。一見淡々としている彼が、マウンドに執念を見せるのは珍しいことでした。
しかし、彼の思いとは裏腹に、チームは県大会決勝で力尽き、ついに春夏連続の甲子園出場は果たせずじまい。しかし、32年前の快投は多くの野球ファンに鮮明に記憶されており、今でもセンバツ前になると取材が絶えないそうです。無名校のエースが強豪校を破った伝説は、現在も語り継がれています。