山倉和博の著書「捕手型人間は出世する」が面白い!現在は病気で療養中?
山倉和博の著書「捕手型人間は出世する」が面白い!一番速いのは江川卓だった
元読売巨人軍の正捕手として江川卓や西本聖ら黄金投手陣を支える活躍をした山倉和博(やまくらかずひろ)。彼のキャッチャーとしての視点を知る手掛かりには、著書「捕手型人間は出世する」があります。彼のキャッチャー論や、バッテリーを組んだピッチャーとのエピソードなどが盛り込まれており、なかなか面白い内容です。
中でも特に面白いのが、江川卓とのエピソード。東京六大学でしのぎを削り、巨人軍でバッテリーを組んだ間柄だけにことさら興味深いものがあります。山倉和博の視点から捉えると、「日本のピッチャーでは、スピードなら江川が一番」。特に速かったのはプロ入り1~2年目で、「真ん中高めに真っすぐを投げておけば打たれなかった」そうです。サインは一応出していたものの、実際は投げたいボールを投げたいコースに投げさせるというリードを行っていました。
つまり、ピッチャー優先のインサイドワークだったことになりますが、この点については、江川卓も「メニューを5通りくらい用意して、どれでいくかピッチャーに委ねてくれるキャッチャーだった」と証言しています。当時の巨人軍は、江川卓や西本聖のような我の強いエース級がいたので、ピッチャーを立てるリードが適していたのでしょう。同書では、江川卓が引退を決めた広島戦でのサヨナラホームランの際の内幕も明かしています。
バッターの小早川毅彦が狙いをストレートに絞っていることは見え見え。そのため、山倉和博は「カーブで仕留めよう」とリードします。しかし、江川卓は「嫌だ、ストレートで勝負する」と首を振るばかり。そこで「仕方ないなあ、長打を打たれないよう外角いっぱいでストレートだ」とリードした山倉和博でしたが、ここでうなずいた江川卓が投げたのは、あろうことか内角高めのストレート。
ご存じの通り、小早川毅彦の打球は、ライトスタンドに飛び込むサヨナラ弾になりました。山倉和博の著作を読んでから数々の伝説の場面を振り返ってみると、また新鮮な見方ができるかも知れません。
山倉和博の現在は病気で療養中?ソフトバンク退団後の消息が不明!
山倉和博に、「現在は病気で療養中」との噂があります。1991年に現役を引退後した山倉和博は、テレビやラジオでの野球解説やスポーツ新聞評論家として、ネット裏から野球を見てきました。1993年からは、古巣巨人で1軍バッテリーコーチを務めています。
その後、1999年から5年間、NHKで野球解説を務めた後、2004年からはフリー評論家として多方面で活動。それ以外にも、読売新聞西部本社のスポーツアドバイザーとして、野球の普及活動に携わっていました。そして2011年に、福岡ソフトバンクホークスの2軍バッテリーコーチとして現場復帰。山倉和博は、前身の南海にドラフト指名を受けてから38年の歳月を経て、ホークスに入団したことになります。
しかし、同年9月末に、「健康上の理由」による突然の退団が発表されて以降現在まで、山倉和博の消息は全くと言っていいほど伝えられていません。そのため、本当に病気ならば、重病である可能性も考えられます。かつての巨人軍の正捕手として活躍した人物の消息が不明とは寂しい限りです。
山倉和博は巨人初のMVP獲得捕手!現役時代の成績や応援歌は?
山倉和博は元巨人軍の正捕手!球団初のシーズンMVPを獲得!
山倉和博は、意外な場面で長打を放つ「意外性の男」とも呼ばれていました。リードと長打力が評価され、1987年に球団史上初めて捕手としてシーズンMVPを獲得したのも山倉和博です。1955年9月2日生まれの山倉和博は愛知県大府市出身で、東邦高校在学中は俊足強打で鳴らし、1973年に、春夏連続して甲子園大会に出場。
同年のドラフトで南海ホークスから2位指名を受け、選手兼任監督だった野村克也から「自分の後継者になってくれ」とまで口説かれましたが、早稲田大学へ進学しました。1年春にデビューし、俊足の捕手として活躍した山倉和博は、4年生で主将に。
1977年、改めて挑んだドラフトにて1位指名で読売巨人軍へ入団します。ルーキーイヤーから1軍でプレーしていた山倉和博は、1980年からは8シーズン連続で100試合以上に出場。確実性に欠けるバッティングは、「ナマクラ」というありがたくないあだ名もありましたが、意外な場面で見せる長打力とピッチャー主体のリードで正捕手として活躍しました。
1987年にMVPを獲得しますが、1988年以降はケガや出場機会の減少もあり、1990年に現役を引退。スター集団の巨人軍にあって、つかみどころのなさを個性として生き抜いた名捕手だったと言えます。
山倉和博は8シーズン連続100試合出場していた!思いもよらない場面で打つ「意外性の男」の応援歌は?
山倉和博が現役引退するまでの通算成績は、13年間で、3608打数832安打113本塁打426打点、打率2割3分1厘です。MVP選出は1回で、ベストナインとゴールデングラブ賞は各3回ずつ獲得しています。規定打席に達しながら打率が2割を切ったシーズンもあるなど、打率は今ひとつ芳しくありませんが、長打力が魅力だった山倉和博。
特に、思いもしない場面でガツンと一発を放つなど、相手チームにとっては、下位打順ながら脅威の存在でした。1985年には、対阪神戦で史上6人目となる3イニング連続ホームランを放って、「意外性の男」の面目躍如。1987年には、128試合に出場してキャリアハイの打率2割7分3厘、22本塁打という成績を残しています。
同シーズンにリーグトップの24敬遠を記録したところを見れば、思いもよらない場面での一撃が相手にとっていかに脅威だったかが分かるでしょう。そんな山倉和博の応援歌の歌詞は、「意外なところで一発流し打ち アッと驚くライトへホームラン」と、「意外性の男」を端的に表現しています。
リード面では、ピッチャー主体の傾向にあり、リードが単調だと批判されることもありました。とはいえ、8シーズン連続100試合出場という実績が証明するように、ピッチャーから高い信頼を得ていたことは間違いありません。
山倉和博の背番号15は呪いの番号?ファンの間では「山倉の呪い」と呼ばれている
巷では、山倉和博が背負っていた「15」は呪いの背番号だと言われることがあります。プロ野球選手にとって背番号は己の代名詞。同じ背番号を持つ歴代の先輩たちの活躍を励みにステップアップする選手がいる一方で、同じ背番号の選手にスランプやケガが続くという、一見呪われているかのような状況に翻弄される選手もいます。
なぜそうなるのかは、全く説明がつきません。山倉和博は巨人軍にて背番号「15」を背負って13年間のプロ生活を全うしましたが、以後同じ「15」をつけた期待の若手選手たちは、次々と不運な運命をたどっています。たとえば、甲子園で1大会65奪三振を記録した辻内崇伸は、将来の大器として期待されながら、度重なる故障に苦しめられ、1軍公式戦登板を果たさずに現役を終えました。
また、ダルビッシュ有とともに東北生まれの本格派ピッチャーとして嘱望された木村正太も同様の運命をたどっています。現在は、ピッチャーの澤村拓一が「15」をつけていますが、安定感に欠けるピッチングが続き、2017年シーズンは故障で1軍登板なしに終わりました。
いずれも本格派ピッチャーとしての素材は抜群だったにもかかわらず故障に悩まされ続けたのは、背番号が「15」だったから……ファンの間では、いつからかこの現象が「山倉の呪い」と呼ばれるように。山倉和博本人にしてみればいい迷惑で、呪いの連鎖を断ち切るメンタルの強い選手に背番号15を背負って欲しいと思っているのではないでしょうか。もっとも、山倉和博自身も現在の消息が不明となっており不運な運命をたどっているようにも思えます。早く元気な姿を見せて欲しいものですね。