2023年1月15日 更新
矢野顕子と元夫・坂本龍一の結婚馴れ初め!泥沼離婚の真相は?
矢野顕子に一目惚れした元夫・坂本龍一!結婚馴れ初めは電撃不倫愛だった!
矢野顕子という個性派シンガーソングライターと、”教授”の異名を持つ世界的音楽家であり、元YMO・坂本龍一は、かつて結婚していました。2人の出会いは、1979~1980年のYMOワールドツアーに、矢野顕子がサポートメンバーとして参加したこと。坂本龍一が一目惚れした矢野顕子は、出会いの9ヶ月前に、最初の夫・矢野誠との離婚が成立したばかりで、4歳になる長男・風太がいました。
一方、坂本龍一は学生結婚した妻との離婚が成立していませんでしたが、矢野顕子は、早々に彼の子供を身ごもります。1980年5月に、娘・坂本美雨を出産すると、非凡なるアーティストとしての感性を持ち合わせた2人は、「挙式や入籍なんて世俗っぽいことは必要ない」として、事実婚という形を選びました。
娘・坂本美雨が2歳になる1982年2月、2人はようやく入籍。「アッコと2人で、手作りっぽく育てるよ」と語った当時の坂本龍一の言葉からは、矢野顕子との夫婦円満ぶりがうかがえました。
矢野顕子と元夫・坂本龍一の離婚協議は5年にも及ぶ!慰謝料は数億円とも……
矢野顕子の幸せな結婚生活は、そう長くは続きませんでした。矢野顕子は、坂本龍一と、彼の事務所のマネージャー兼秘書との不倫関係に気づいてしまったのです。何度問い質しても、坂本龍一は「ごめんなさい」と繰り返すばかりで、関係を絶つことはありません。
それどころか、坂本龍一のアメリカ進出に伴い、1990年に夫婦で渡米しますが、愛人までニューヨークに移住してきてしまう始末。矢野顕子と娘・坂本美雨がいる自宅には寄り付かなくなった坂本龍一は、1年もしないうちに、愛人との間に隠し子をもうける事態にまでなりました。
隠し子を預けて愛人と旅行に出かけたという噂もあっただけに、矢野顕子は半ば黙認気味なのかと思われましたが、2006年、ついに離婚にいたります。実は、2001年夏から始まっていたという矢野顕子と坂本龍一の離婚協議。話が長引いた原因は、数億円にも及ぶ慰謝料が原因だと噂されています。
矢野顕子にしてみれば、いくら貰っても収まりがつかない話かもしれませんが、そもそも略奪婚だっただけに、ある程度は予測ができた結果だったような気がします。
矢野顕子の学歴やプロフィールは?「さとがえるコンサート」でTIN PANと共演!
矢野顕子の年齢は?生い立ちや学歴、デビューまでの経緯は?
矢野顕子は、1955年2月13日、東京生まれ。2015年に還暦を迎え、2023年の誕生日で68歳となります。医師であった父の開業に伴い、3歳で青森県青森市に転居した矢野顕子は、青森明の星高等学校附属のピアノ教室で、厳しいピアノレッスンを受けて育ちました。当時から、即興演奏と歌、既存曲のアレンジなどを得意とするなど、独特な感性は際立っていたそうです。
軽音部に憧れて単身で東京に戻り、青山学院高等部に進学した矢野顕子は、高校のクラブでは満足できなくなり、父親の知人だった安部譲二の自宅に下宿。夫妻が経営するジャズクラブでのセッションライブを経て、プロデビューの道を拓きました。
2年生の時に高校を中退した矢野顕子は、1974年、18歳の時に「ザリバ」のメンバーとしてデビューを果たしますが、レコード会社の強い意向ですぐにソロへ転向。1976年のデビューアルバム「JAPANESE GIRL」で類いまれなる音楽性の高さを示して以来、YMOをはじめとする大物アーティストとの共演や、楽曲提供など、多岐にわたる活動を展開するようになります。
矢野顕子はTIN PANと共演
矢野顕子は、1990年に坂本龍一と渡米してから、現在もアメリカ在住。そんな矢野顕子が、毎年末、日本に帰国して開催する「さとがえるコンサート」は、1996年から数えて2016年に20周年を迎えました。
様々なゲストを迎えてきた「さとがえるコンサート」ですが、2014年以降は、細野晴臣、林立夫、鈴木茂のトリオバンド・TIN PANが2年連続で出演。TIN PANとは、矢野顕子のファーストアルバム「JAPANESE GIRL」でのセッション以来の旧知の仲ですから、共有する贅沢なレパートリーは、まだまだ尽きません。
矢野顕子の本名は?独特の感性と衰えぬ歌声は天からのギフト!
矢野顕子の本名は鈴木顕子といいますが、ソロデビュー当時に、矢野誠と婚姻関係にあったことから、そのまま”矢野顕子”として活動しています。矢野誠は、「ザリバ」のデビュー曲「或る日」を手掛けた音楽プロデューサーで、オメデタ結婚した当時の矢野顕子の年齢は19歳でした。
その後も、坂本龍一との結婚・離婚、あるキリスト教系宗教への入信の噂など、矢野顕子にはスキャンダラスな話題が絶えません。
しかし、矢野顕子の全身からメロディやリズムがあふれ出すような、超自然体な才能、誰の真似でもないキュートな歌声は、全てを”独特の感性”と説明できてしまうくらいに傑出したものです。アメリカを拠点に、常に日本の音楽シーンの最前線に君臨する矢野顕子は、2016年にソロデビュー40周年を迎えました。
その歴史を讃えるべく、冬には、1992年公開のドキュメンタリー映画「SUPER FOLK SONG~ピアノが愛した女~」のデジタルリマスター版が、復活上映。同映画は、ピアノ弾き語りアルバム「SUPER FOLK SONG」のレコーディングに密着したもので、当時は、レイトショー上映だったにも関わらず、約2万人の新動員記録を樹立しました。
また、名曲「ラーメンたべたい」を収録した1984年のスタジオアルバム「オーエスオーエス」など2タイトルが再発され、11月末には、初のオールタイムベストアルバム「矢野山脈」が発売。こうして矢野顕子の旧作を振り返った時に驚くべきことは、還暦を超えた歌声に全く衰えがないことです。
「全く喉のために何もしてない。のど飴くらい」という矢野顕子には、天が特別な物を与えたとしか思えません。50周年を迎える2026年にも、驚かせてくれそうです。矢野顕子は、100歳を超えても、変わらぬ若々しさで、歌い続けてくれるのではないでしょうか。