やしきたかじんは、死んでも騒動のタネを残す反骨の男
やしきたかじんは、在日の実業家の息子でぼんぼん育ちだった
やしきたかじんが亡くなって早一年。しかし、やしきたかじんは、死んでもなお、騒動の渦中にあります。やしきたかじんの妻さくらさん、および作家の百田尚樹と、元マネージャーや弟子、タレント仲間との間で行われている裁判によって、確執がより根深いものとなっているのです。
やしきたかじんは、1949年生まれで2014年の正月1月3日、64歳で亡くなっています。生前は伏せられていましたが、やしきたかじんは、在日実業家の息子で、「ぼんぼん」として何ひとつ不自由なく育ちました。高校時代は、新聞記者になることを目指したやしきたかじんですが、やがて、進学や進路のことで父親と対立。家を飛び出し、大学に入っては中退を2回繰り返します。やしきたかじんにとっては自分探しの時代だったのでしょう。
やしきたかじんは、大阪のバーやクラブの広告塔
やしきたかじんは、やがて京都祇園のクラブで弾き語りをしていたことがきっかけで、1971年、歌手デビューします。歌を聞かない客がいると、すぐ喧嘩する面白い奴がいるというのが、そのきっかけだそうですが、やはり、歌心があったのでしょう。しかし歌手としてのやしきたかじんは、10年以上泣かずとばずでした。結局、そのたっしゃなしゃべりが受けて、タレント活動を始めたやしきたかじん。当時から、晩年のやしきたかじんのようにコワモテだったわけではなく、リポーターなどの仕事を器用にこなし、東京にも進出します。
しかし、やしきたかじんの心には、芸能界に対する恨み辛みが積み重なっていたよう。それを証明するかのような大阪の北新地やミナミ、京都は祇園、はては日本全国の繁華街での豪快な暴れっぷり遊びっぷりがやしきたかじん伝説となっていきます。ある時、漫才のトミーズ雅を引き連れて新地で飲んでいたとき、スナックビルの上から下まで、全ての店に入って飲むというような荒業もやったようです。気にいった者は引き連れ、少しでも癇に障れば、相手がたとえやくざであっても喧嘩を吹っ掛ける。そんなやしきたかじんに、大阪の夜の町はいつも暖かく、やしきたかじんもまた、キタやミナミの広告塔として、夜の町を大いに賑わせたのです。
やしきたかじん「やっぱ好きやねん」が名曲すぎる!
やしきたかじんの名曲、「あんた」「東京」「やっぱ好きやねん」
やしきたかじんが、夜の街でこれほど支持された理由は、その珠玉のヒット曲にあります。といっても、大阪以外、特に関東の方にはあまり聞きなれない曲も多いかもしれませんが。やしきたかじんが、歌手として不動の地位を築いたのは、やはり1984年にリリースされた「あんた」でしょう。
曲頭から、「うちのことはええからね」と、生粋の大阪弁で綴られた、別れた男を偲ぶ切ない女のモノローグ。夜の街で働く女性たちはもちろん、大阪の女性全ての心をギュッと掴みました。大阪の男と女の別れに、かならず介在する東京を歌った歌としては、ボロの「大阪で生まれた女」が有名ですが、やしきたかじんの「東京」も出色です。この歌詞もまた女性のモノローグで構成され、サビの「悲しくて悔しくて、泣いて泣いてばかりいたけど、かけがえのない人にあえた東京」とシャウトするやしきたかじんの歌唱は圧巻。この他にも、ラーメンのCMソングになった「やっぱ好きやねん」や、「なめとんか」、「ITIZU」など、数多くのヒット曲があります。
やしきたかじんの歌は、大阪人のソウルソング
やしきたかじんの歌は、まさに大阪人にとってソウルソング。下手をすると陳腐になりがちな大阪弁の歌詞ですが、大阪の街で繰り返されるいくつも出会いや別れを、その主人公に成り切って歌うやしきたかじんの圧倒的な歌唱力が、誰もが一度は経験したことがある、恋の思い出を、大阪人に甦らせてくれるのです。
やしきたかじんが残した大騒動の元は、百田尚樹作「殉愛」
やしきたかじんの晩年は、さらにドライブがかかっていました。東京には一切目もくれず、独自のバラエティ番組を生み続け、最後は、政治や経済をテーマにした独自の冠バラエティ番組を持っていました。なかでも読売テレビ「たかじんのそこまで言って委員会」は、多分に右寄りのスタンスとはいえ、東京のキー局では絶対にできない政治バラエティ。安倍総理大臣さえゲストに出演した話題の番組でした。
やしきたかじん自身も、大阪府知事を目指した橋下徹の後押しをしたことや、その後の大阪維新会立ち上げに深く関わっていたようです。こうして、やしきたかじんの周りには、今までにもまして、有象無象の輩が集まることになります。やしきたかじんは、本来反骨の人。そのため、囃し立てられ一目置かれるほど、やしきたかじんは、孤独になっていったようです。二度の離婚を経て、夜の街での長年の乱行も祟ってか、体調を壊したやしきたかじんは、心もひどく弱っていたといいます。そんな時に出会ったのが、さくらさん。やしきたかじんの晩年、がんでの入院から闘病、息を引き取るまでを看取った女性です。
妻さくらさんの献身的な看病の記録は、「永遠の0」でも知られるベストセラー作家百田尚樹によって「殉愛」という本にまとめられましたが、これが大問題となります。晩年、やしきたかじんが信用できる人物はさくらさんしかおらず、おまけに古い付き合いのマネージャーや弟子、芸能人の仲間たちが、やしきたかじんをいいように利用していたかのような描きぶりが、さくらさんや百田氏と、従来からのやしきたかじんの仲間たちを、真っ二つに割く騒動に発展。やしきたかじんの遺産や番組の権利などが、法廷闘争にまで持ち込まれています。
この裁判は、まずさくらさん側が勝利していますが、大阪の芸能界における意見としては、さくらさんや百田氏の主張には存外否定的。多くのファンにとっては、「たかじんさん、立つ鳥跡を濁さずや。ほんま、勘弁してえな」といったところが本音です。しかし、やしきたかじんが、大阪の芸能界にとって、誰にも代えがたい存在であったことは、間違いありません。