吉田博の木版画は浮世絵と西洋画美の融合!おすすめ作品は?

吉田博の木版画は浮世絵と西洋画美の融合!おすすめ作品は?

吉田博の木版画は浮世絵と西洋画美の融合だった!

吉田博とは、今年、生誕140周年を迎えた風景洋画家の第一人者。全国巡回展覧会が、郡山市立美術館で開催中です。郡山市での全国巡回展は、7月25日で千秋楽を迎え、次回の開催地については、「インターネットミュージアム」のホームページ上で、随時確認することができます。

明治32年(1899)に、描きためていた水彩画を携え、洋画家として23歳の若さで渡米した吉田博は、言葉の通じない異国の地で才能を認められ、デトロイトやボストンで展覧会を開催して大成功を収めます。その後、欧米諸国や欧州でも高い評価を受けた吉田博が傾倒した木版画には、日本の伝統芸である浮世絵の木版画技術と、西洋画で培った独自の視点を取り入れるという融合性がありました。

西洋と東洋画の美が融合した吉田博の作品は、写実的でありながらも抒情性に溢れ、日本国内よりも、むしろ外国での知名度のほうが高く、マッカーサーやダイアナ元妃など海外の要人からも絶大なる支持を受けました。

吉田博の遺した作品は油彩画がほとんどだった?おすすめ作品とは?

吉田博は、明治・大正・昭和にわたって活躍した著名な木版画家としても知られていますが、実は木版画は、44歳の時から始めたもの。若い頃には水彩画も描いてはいましたが、生涯で遺した作品のほとんどは、意外にも油彩画でした。自然風景を描く洋画家として多くの名勝作品を遺した吉田博ですが、とりわけ、高山には相当なこだわりを持っていたようです。単に写実的に描くだけではなく、「山に篭って自然に委ねる」という姿勢を貫いた吉田博は、2カ月間の山暮らしで風貌が変わってしまい、下山したところで、怪しんだ警官に尋問を受けたエピソードもあるほどです。

そんな吉田博の魂の宿った数々の作品は、今もって、登山愛好家の心をつかんで離しません。中でも、大正期の作品『穂高山』『穂高の春』は、下界から見上げただけでは描けない、リアルなアングルを求め続けた吉田博ならではのストイック過ぎる執念の賜物といえるでしょう。また、吉田自身も、『穂高山』には特別な思い入れがあったのか、次男に「穂高」と命名しています。

吉田博が木版画に捧げた生涯!欧米での活躍が目覚ましい!

吉田博が木版画に生涯を捧げた理由とは?欧米旅行後に獅子奮迅の活躍!

吉田博は、デトロイトやボストン、パリなど、世界各国の美術館で、水彩・油彩画の展覧会を開催して、大成功を収めました。海外では、抜群に知名度の高かった吉田博ですが、国内では、当時の重鎮・黒田清輝ら画壇の代表者たちから、「絵が重たすぎる」と全く評価されませんでした。ところが、1920年に、「新版画」の版元・渡辺庄三郎と出会ったことが、吉田博のその後の人生の大きな転換点となります。

当時は、明治30年~昭和時代にかけて描かれた木版画のことを「新版画」と呼び、浮世絵同様に、版元を中心に、絵師・彫師・摺師の分業で制作されていました。吉田博は、3度の欧米旅行の帰国後に、その経験を生かして、今の時代に合った木版画の制作に獅子奮迅に取り組みます。その制作方法は、今までの技法とは異なっていました。絵師だけでなく、自分も、彫師・摺師の技を磨くことによって、分業にはせずに、全工程を、自らの監修の元に置いたのです。

こうして、吉田博は、「西洋の画風を融合させた新しい木版画」の制作に生涯を捧げる決心をしました。

吉田博の進駐軍人気が目覚ましい!マッカーサー夫人まで?

吉田博が取り組んだ「西洋の画風を融合させた新しい木版画」は、日本の伝統的な浮世絵版画の高い技術を受け継いでいながらも、西洋画独自の視点を取り込んだ、独創性ある作品として海外で高い評価を受けました。その作品は、日本の自然風景だけではなく、グランドキャニオンや、ナイアガラ、ベニス、マタホルン、インド、シンガポールなど、アメリカ・ヨーロッパ・アジア諸国に至る世界中の風景を、それまでになかった斬新な木版画の作品として描いています。

とにかく吉田博の海外での人気は凄まじく、下落合のアトリエには、敗戦直後(1945)の秋に、マッカーサー夫人も訪問したほど。進駐軍によるアトリエ見学会も毎月行われていました。日本に降り立ったマッカーサーの最初の一言が、「ヨシダヒロシはどこだ?」だったというのも、この盛況ぶりからすると、まんざら嘘ではなかったのかも知れません。

吉田博は「絵の鬼」と称されていた!答えを探し続けた生涯とは?

吉田博は、世界中の自然風景や山々を愛し、山や渓谷に入ることで、独自の視点や構図を生み出してきました。そんな吉田博は、ある洋画家の描いた絵に対して、「彼の絵には心がない」と評したことがあったそうです。「おそらく彼は、この山を、ストーブのある暖かい部屋の中で描いたのだろう。それでは山の神髄を描くことはできない」との理由からでした。必要あれば何カ月も山に篭り、頂から見える雲海の一筋の光さえ見逃さず、自らの仕事に一瞬たりとも妥協を許さない……このような未知なる美に対する、凄まじいほどの執着心から、「絵の鬼」とまで称された吉田博。

しかし、日本の画壇は、吉田博を認めようとはしませんでした。それでも、大正後期から、東洋の伝統に西洋の美を融合させた「木版画」に新境地を見出した吉田博。海外に赴き、取材し、そこで培ったさまざまな経験や情報に基づいて木版画を制作しながら、常に世界を意識し続けていました。

「海外から、日本はどう見られているのか」、「日本人は、洋画をどう描くべきなのか」、そんな問いかけを世界に向けて発信し続け、それに対する答えを探し続けた吉田博の生涯。今の日本人が、吉田博の生き方をどう感じ取るのか?「吉田博・全国巡回展覧会」には、一見の価値がありそうです。

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