2020年5月7日 更新
残間里江子主催「club willbe」の試み!学歴、プロフィールは?
残間里江子主催「club willbe」は大人たちの新しい人生をプロデュース!
残間里江子が主催する「club willbe」は、大人の学びや文化創造を目指して、さまざまなオリジナルプログラムを企画・開催する、会員制ネットワークです。あの山口百恵の伝説の自叙伝「蒼い時」を手掛けたことで知られる、敏腕プロデューサー・残間里江子は、若い頃から常に時代の先端を追い求めて、新しい挑戦を繰り返してきました。
しかし、50歳を超えた頃、高年齢者を圏外視する日本の創造的分野に、”居心地の悪さ”を感じるようになります。「大人だからこそ、新しい生き方を」との思いから、料理研究家・栗原はるみや、時の内閣総理大臣・小泉純一郎ら、119人の50歳以上のパネリストを集めて、トークセッションを開催。大きな反響を呼んだことがきっかけとなり、2009年に「club willbe」を創設するに至りました。
「club willbe」の会員数約1万3000人の平均年齢は53歳。学びのためのセミナーやイベント、交流会の他、有志による混声合唱団への参加が自由となっています。入会金や会費無料で提供しているのは、多くの出会いが人生に創造をもたらすことを、残間里江子が身を以て体験してきたからです。
残間里江子の学歴と貧しい少女時代!プロデユーサーとしての成功には出会いの努力があった!
残間里江子は、1950年3月21日、宮城県仙台市に生まれました。旧国鉄の組合員だった父親の失職のため、暮らしぶりは大変貧しかったそうです。父親の転職により、中学からは静岡県富士市で過ごし、高校は、県内の女子高に通いました。その後は、経済的な理由から四年制大学を諦め、明治大学短期大学に進学。その間に、残間里江子は、自らアルバイトで学費を貯め、アナウンス学校に通っています。
こうして、難関だった静岡放送に入社を決め、アナウンサーとして働くようになりました。しかし、将来性を見いだせなかった残間里江子は、わずか2年で静岡放送を退職してしまいます。それからというもの、”1日10人の出会い”をノルマとし、約9カ月後に、新宿のバーで知り合った現在の芸能評論家・前田忠明を介して、「女性自身」の記者として働き始めました。
30歳を目前に「女性自身」を退いた日、偶然にも芸能プロダクションの副社長となっていた、小学校の同級生に再会。彼の会社の出版物を手掛けるようになったことが新たな出会いを呼び、山口百恵から直々に自叙伝プロデュースのオファーが届くこととなりました。
残間里江子に結婚・離婚歴アリ!病気がちだった生い立ち
残間里江子の結婚・離婚歴!39歳未婚出産の息子の現在はメディア業界人
残間里江子は、現在は独身ですが、結婚・離婚歴があり、息子もいるシングルマザーです。残間里江子は、「女性自身」の記者として活躍中だった20代後半で、大学時代の部活仲間だった夫と結婚していました。当初は、残間里江子の仕事に理解を示していた夫でしたが、ある時から女性の影をチラつかせるようになります。
残間里江子から離婚の意思を告げるも、夫が応じなかったため、離婚調停はかなり長引いたそうです。夫との別居期間中、残間里江子は別の男性と交際するようになり、まもなく妊娠が発覚しました。しかし、男性との結婚に踏み切れず、「人間ドックに入ります」と、39歳で息子を極秘出産すると、わずか1週間で職場復帰したそうです。人一倍苛酷な子育てだったはずですが、現在は息子も立派に大人になり、残間里江子と同じくメディア業界に勤務しているといいます。
残間里江子は小児性関節リウマチ炎、心臓弁膜症と生まれた時から病気尽くしだった!
残間里江子には持病があり、医師から「妊娠は難しい」と告げられていたため、39歳での自然妊娠を諦めるという選択肢はありませんでした。残間里江子自身は、生後直後に小児性関節リウマチ炎や、心臓弁膜症を患っており、療養生活とは切っても切り離せない少女時代を送っています。中学生の時には、約100日間も入院していたそうで、同じように病気に苦しむ子供たちの死も、たくさん目にしてきました。
常に死を身近に感じていたからこそ、残間里江子は「生きていることが全て。死んだら、その時で終わり」との思いを強くしていきます。病弱故に、貧しい家庭を働くことで支えられなかった悔しさから、生きることの意味を働くことに見出すようになっていきました。病気とは無縁になれなくとも、1日3時間の睡眠で、がむしゃらに働き続ける残間里江子にとって、妊娠・出産はすでに諦めかけた夢だったはずです。
残間里江子は病床でもプロデユーサー魂を忘れない!「閉じる幸せ」で人生を豊かに!
残間里江子が「club willbe」の活動で提供するのは、新しい挑戦を諦めがちな大人世代の現状打破です。「新しい何かを始めたい」という想いは、人が死ぬまで持ち続ける願望です。そのためには、年齢への否定を含めて、自分の行動力の足かせとなっている感情や状況を見極め、切り離す作業が必要。
自分の求めるビジョンを成功させるために最も必要なことは、冷静に自分を見つめ、不必要なものを”閉じる”ことだという考えは、残間里江子の著書「閉じる幸せ」にも書かれています。新しい出会いと、新しいステージを提供する「club willbe」は、陰鬱なイメージが付きものな高齢化社会の意義を、大きく変えてくれそうな気がします。1980年に出版された山口百恵の自叙伝「蒼い時」は、アイドル自叙伝の通例だったゴーストライターを立てず、キレイごとなしの衝撃性が話題となり、発売1カ月で100万部を突破しました。
常に全力で相手に耳を傾け、全力で仕事に向かう残間里江子の姿勢は、66歳となった現在も、全く衰えることはありません。リオオリンピック開催中、残間里江子は、傷めた膝半月板の切除手術のため、再び病院のベッドにいました。「東京オリンピックの頃には生きていても、10年後は分からない。仕事も、あと7~8年くらいしかできないかもしれない」と、病室の天井を見つめながら、思いを巡らせたそうです。
しかし、残間里江子にとって、これは老齢による”弱気”ではなく、自分の年齢と立ち位置を確認して、制限時間に精一杯注力するための”閉じる儀式”。これは、高年齢の大人だけではなく、今ここにある幸せを実感するために、全ての人々が学ぶべき姿勢といえそうです。