加藤登紀子が獄中結婚したワケ!夫・ 藤本敏夫、娘の現在は?

2020年5月15日 更新

加藤登紀子が獄中結婚したワケ!夫・ 藤本敏夫、娘の現在は?

加藤登紀子が獄中結婚したワケ!

加藤登紀子は、1943年12月27日生まれのシンガーソングライター。女優、作詞家、作曲家としても活躍しており、「おときさん」の愛称で親しまれています。旧満州ハルビンの生まれの加藤登紀子ですが、満州引き揚げの際に、日本に帰国しました。

加藤登紀子は東京大学に進学し、在学中の1966年に「誰も誰も知らない」で歌手デビュー。当時は、現役大学生の歌手デビューは少なく、世間に衝撃を与えました。加藤登紀子が歌手デビューを果たし活躍する一方、時代は大学紛争のまっただ中。全国各地で激しさを増していったこの時代に、反帝全学連副委員長を務めていた後の夫・藤本敏夫と出会った加藤登紀子は、交際を始めました。

学生運動が激しさを増し、警察からマークされていた藤本敏夫は、結局、1972年4月に公務執行妨害等の罪で逮捕されます。懲役3年8カ月の実刑を言い渡された藤本敏夫は、中野刑務所に収監。もちろん獄中にいる人との恋愛に、加藤登紀子の周囲は猛反対しましたが、加藤登紀子の実母の淑子は、応援し続けたそうです。

実母の後押しもあり、交際を続けた加藤登紀子は、ついに藤本敏夫と獄中結婚をしました。現在でも獄中結婚に周囲の目は厳しく、1970代といえば、今以上に周囲の目は厳しかったはずです。そんな弊害にも負けない加藤登紀子と藤本敏夫の愛は、まさに真実の愛ですよね。二人の堅い絆、うらやましいものです。

加藤登紀子の夫・藤本敏夫とは?娘の現在は?

獄中結婚を果たした加藤登紀子の夫・藤本敏夫とはどんな人なのでしょうか?
加藤登紀子の夫・藤本敏夫は、1944年1月23日、兵庫県西宮市生まれです。同志社大学在学中に学生運動に参加し、反帝全学連副委員長を務めていた藤本敏夫。懲役を終え、生活が落ち着いてくると表舞台から身を引き、食と農をテーマにした活動を始めます。

1981年には、多目的農園「鴨川自然王国」を千葉県鴨川市に設立した藤本敏夫は、1999年に農林水産省関東農政局の諮問委員に就任。その後の人生を農業に捧げ続けてきた藤本敏夫は、2002年7月、患っていた肝臓ガンのため、その波乱万丈の人生を終え永眠しました。

加藤登紀子と夫・藤本敏夫の間には、3人の女の子がいます。獄中結婚当時、加藤登紀子のおなかにいた長女は1972年生まれ。その後、1975年、1980年生まれの娘たち。次女は、現在歌手として活動しているYae(本名 藤本八重)です。NHKのみんなのうたでオンエアされた「名もなき君へ」は、作詞・作曲も手がけています。また、テレビドラマの挿入歌になった「名も知らぬ花のように」は、母の加藤登紀子が作詞、娘のYaeが作曲をしています。親子で制作した歌があるなんて素敵ですよね。母親である加藤登紀子譲りのYaeの澄んだ歌声は、一度聴く価値があります。

また、歌手活動だけではなく、父親である藤本敏夫が手掛けた鴨川自然王国の活動にも参加し、半農半歌手と紹介されることもあるYae。両親の仕事を尊敬し、受け継ぐなんて、藤本敏夫と加藤登紀子が築き上げた家族は、まさに理想の家族に違いないでしょう。

加藤登紀子が経営するロシア料理店の評判は?「紅の豚」秘話とは!

加藤登紀子が経営するロシア料理店の評判は?

加藤登紀子は、ロシア料理店「Sungari(スンガリー)」を経営しています。実は、このお店は、もともと加藤登紀子の両親が開業したお店です。加藤登紀子の両親は、旧満州にいた際に、ロシア人の住居を間借りし生活していたことがあり、ロシア語が堪能でした。また、近所に住むロシア人との交流も盛んで、その際にロシア料理を教わっていたのだとか。

そんな経緯もあり、ロシア料理店をオープンさせた加藤登紀子の両親。ロシア人が来日した際に食べにくることがあるほど、本格的なロシア料理のお店です。それは、シルク・ドゥ・ソレイユのメンバーや、フィギュアスケートのプルシェンコ選手も来店したことがあるほどで、加藤登紀子が経営するロシア料理店はかなり本格的だと評判です。ロシア人が「ロシアよりも美味しい」と太鼓判を押しているといいますから、その味はお墨付きといえそうですね。

加藤登紀子が経営するロシア料理店は、現在、新宿東口本店・新宿西口本店の2店舗で展開されています。3400円と6000円のコースもあり、手頃にロシア料理がいただけるお店。ロシア料理に触れる機会なんてめったにありませんが、寒い冬にぜひロシア料理を食べてみたいですね。

加藤登紀子が主題歌・声優を務めた「紅の豚」秘話とは!

加藤登紀子は、「紅の豚」の主題歌とエンディング曲を歌い、さらにマドンナ役の声優を務めました。「紅の豚」とは、1992年に公開されたジブリ作品の映画です。映画「紅の豚」は、イタリア・アドリア海を舞台に第一次世界大戦後の男たちの生きざまを描いています。

主題歌として起用されたのは、シャンソンの代表曲のひとつ。1871年パリコミューン崩壊後の悲劇をテーマとした「さくらんぼの実る頃」です。映画「紅の豚」では、加藤登紀子が原語であるフランス語で歌っています。

「紅の豚」の宮崎駿監督と加藤登紀子が会って初めて録音したとき、加藤登紀子は歌詞を片手に、完全に歌いこなせている状態ではなかったそうです。ピアノ演奏も、加藤登紀子のマネージャーが遠慮がちにひいていたのだとか。ぎこちなく完全とは言えない録音だったにもかかわらず、宮崎駿監督は「映画の主題歌にはコレだ!」と、最初の録音を採用。

もちろん加藤登紀子は驚いたそうですが、実際に映画の試写会を見ると、シーンの雰囲気によくあっていて、しっくりくることに感心したそうです。加藤登紀子は、「紅の豚」がシャンソンを見直すきっかけとなったと後に語っていました。秘話を聞いてから「紅の豚」を見ると、今までとは違った見方ができそうですね。

加藤登紀子の魅力!

加藤登紀子は、デビュー50周年を迎え、まだまだ現役で歌い続けています。年齢を感じさせることもなく、その歌声にはさらに深みを見せ、輝いています。2015年12月には、京都東山で加藤登紀子恒例のほろ酔いコンサートも開催されました。このほろ酔いコンサートは、各地で開催され続け、人気のコンサート。観客はお酒を片手に、また、加藤登紀子も歌の合間にお酒を飲みながら進むので、肩肘はらずに加藤登紀子の歌を楽しめます。

シャンソンというと、日本ではまだ馴染みもあまりなく、遠慮しがちにもなるかと思うのですが、そんな雰囲気を微塵も感じさせないコンサートになっているのです。ベテラン歌手ですが、構えず、威張らず……そんな雰囲気が、現代でも加藤登紀子の人気が高い理由なのでしょう。

さまざまな時代を生き抜き、決して順風満帆の人生だったとは言えないと思いますが、どんな時も歌を歌い続けてきた加藤登紀子。代表曲でもある「百万本のバラ」は、曲名を聞くだけでフレーズを歌える方も多いですよね。それこそ、加藤登紀子が愛され、加藤登紀子の歌が世に認知されている証拠です。加藤登紀子の歌には、人をひきつける力があるのも、加藤登紀子の人生があってこそ。加藤登紀子には、歌の力、歌の大事さを、歌を通して、これからも訴え続けていってほしいです。

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