葛飾北斎の晩年のペンネームが!天才浮世絵師の知られざる奇人ぶりとは?

葛飾北斎の晩年のペンネームが!天才浮世絵師の知られざる奇人ぶりとは?出典:https://ja.ukiyo-e.org

葛飾北斎の晩年のペンネームが!天才浮世絵師の知られざる奇人ぶりとは?

葛飾北斎は号(ペンネーム)を30回変えた?!晩年は「画狂老人卍」??

葛飾北斎(かつしかほくさい)は、日本で最も有名な画家ともいわれる、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。葛飾北斎は、1760年(宝暦10年)江戸中期にあたる頃、現在の東京都墨田区に生まれました。姓は川村で、幼名は時太郎と名付けられた後に、鉄蔵と称するようになります。

88歳と、当時では長命だった葛飾北斎ですが、没するまでに、当時のペンネームともいえる号を30回も改めたというから驚きです。研究者によって数え方はまちまちではありますが、主な号として挙げられているものだけでも、「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」の6つ。晩年に至っては「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」というユニークなペンネームを名乗っています。

葛飾北斎が次々と改号していた理由には、号を弟子に譲ることで収入を得ていたという説も。実際、著名な「北斎」の号も弟子に譲っていたようです。また、自らの才能をオープンにすることをよしとしない性格だったからという説もみられます。

葛飾北斎は天才!奇才?変わり者の浮世絵師だった!

葛飾北斎が残した浮世絵の数々は、海外でも人気が高く、日本特有の文化としても誇るべきものです。そんな天才画家・葛飾北斎とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。よく知られているのは、絵を描くこと以外に神経を使わないような、葛飾北斎の生き方です。一風変わった葛飾北斎のキャラクターは、小説や漫画、映画でも、たびたび描かれてきました。

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行儀作法を知らず挨拶はしない、金銭に無頓着、身なりには気を遣わない、歩く時に呪文を唱えていたなど、葛飾北斎の奇人エピソードは多々あります。改号30回に加え、引っ越しは93回したともいわれている葛飾北斎。たび重なる引っ越しの理由もふるっていて、掃除をしないので、部屋が汚れるたびに引っ越していたとか。

また、出来の悪い着物を身に着けて、他人から「田舎者」と言われることを密かに喜ぶような気性だったという話もあります。現代人のわれわれからみて、奇人であるとの印象はぬぐいようもありませんが、葛飾北斎の生きた当時も、変わっている人だと思われていたことでしょう。

葛飾北斎「富嶽三十六景」に海外が驚嘆!有名な作品は?

葛飾北斎の傑作「富嶽三十六景」には海外からも感動の声が!

葛飾北斎の傑作「富嶽三十六景」は、あまりにも有名です。中でも「赤富士」は、誰もが一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。YouTubeでは「富嶽三十六景」に描かれた36の風景が、BGMとともに編集された動画が数多くアップロードされており、国外のユーザーからも称賛の声が多数寄せられています。

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浮世絵に描かれている富士山の美しさもさることながら、当時の人々の暮らしぶりが躍動感とともに描写されている様子が、日本人が感じる以上に、魅力的かつ神秘的に見えるのかもしれません。実際、葛飾北斎の作品に影響を受けたという海外の巨匠もたくさんいます。

特に代表的なのは、「ひまわり」で有名なゴッホや、印象派代表のモネです。彼らが浮世絵のエッセンスも参考にしていたことが知られると、西洋には、空前のジャポニズムブームが起こります。ちなみに、浮世絵がヨーロッパに広まるきっかけとなったのは、日本の磁器や陶器の輸出でした。

商品の器が割れないように、緩衝材として使われた包み紙に描かれていたのが、葛飾北斎の「北斎漫画」。これが、海を越えて、現地の人々の目に留まったことから、その存在がクローズアップされるようになりました。

葛飾北斎の名作「富嶽三十六景」実は四十六景あった!?

葛飾北斎の作品は、1図1作として数えると、軽く3万点を超えるといいます。「富嶽三十六景」や「千絵の海」のような風景画の他にも、絵のお手本にもなっていたスケッチ集「北斎漫画」や、妖怪を描いた「百物語」があります。特に有名なのが、「富嶽三十六景」です。葛飾北斎が、50代の頃に旅した、各地の景色が元となっています。

ご存じの方も多いかもしれませんが、「富嶽三十六景」に描かれた風景は、葛飾北斎が旅をしながら写実的に描いたものではありません。カメラなどない時代に、記憶の中にある風景に、葛飾北斎のセンスと高い技術で構成し、描いたというのだから驚かされます。

「富嶽三十六景」が完成したのは、葛飾北斎が72歳のときのことでした。なお、足掛け20年の歳月を費やして出版された「富嶽三十六景」が大変好評だったため、葛飾北斎は、追加で10景を描いています。この10景は、東海道側から見える風景を描いた「富嶽三十六景」に対して、反対側の甲州川から見える風景を描いているため、「裏富士」とも呼ばれています。

葛飾北斎の絵画がオランダの博物館で発見された!西洋人が描いたと思われていた?!

葛飾北斎の浮世絵がきっかけとなって、ヨーロッパ各地において、空前のジャポニズムが広まったのは1870年代頃でした。それから時が経つこと、約150年、オランダのライデン国立民族学博物館にて、長い間「作者不明」とされていた絵の作者が、葛飾北斎である可能性が高いことが判明しました。

ヨーロッパでジャポニズムが広まる以前の1826年、長崎は出島の商館長と、それに同行していたドイツ人医師シーボルトが、日本から民族資料数十点を持ち帰ってきました。その中に、葛飾北斎の作品があったことは知られていましたが、どうやら、今回日の目をみることになった作者不明の絵が、それに当たるのではないかということのようです。

シーボルトと葛飾北斎の交流の様子は、江戸末期の画人伝「古画備考」で裏付けられているといいます。さらに、シーボルトの子孫が持っていた目録と照らし合わせることで、葛飾北斎の作品であるとの確信が得られたとか。しかも、その数、なんと6枚。詳しい調査結果の公開が待たれます。

絵を描くことに関して、非常にストイックで、いくつになっても探求心が衰えることのなかった葛飾北斎。「73歳でようやくあらゆる造形をいくらか知った。90歳で奥義、100歳で神妙の域を超えるかも」と、老いてもなお、絵への執着心を示した様子は、まさに「画狂老人卍」そのものです。現代でも世界中で人気が衰えない秘密は、葛飾北斎の狂気スレスレともいえる、絵にこめられたエネルギーが、見る者の心の内にまっすぐ伝わってくるからなのかもしれません。

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