細川ガラシャの辞世の句!戦国一の美人という噂の真実は?

細川ガラシャの辞世の句!戦国一の美人という噂の真実は?

細川ガラシャ最期の時に残した辞世の句が深い!細川ガラシャの辞世の句はどんなもの?

細川ガラシャは、戦国の世に生きた明智光秀の三女で、細川忠興の正室として知られています。もっと有名なのは、隠れキリシタンだったということでしょう。そんな細川ガラシャの人生は、壮絶なものでした。
細川ガラシャは、15歳という若さで細川忠興の元へ嫁ぎ、5人の子供に恵まれます。その後、本能寺の変が起き、父親である明智光秀も討たれ、細川ガラシャは『逆臣の娘』として幽閉されることとなりました。ここで、キリスト教に出会い、隠れキリシタンとして改宗し、その時にもらった洗礼名が『ガラシャ』です。

細川ガラシャの最期は、慶長5年(1600年)8月24日。夫の細川忠興が徳川家康に従い、上杉討伐へと向かった時のことでした。留守を狙って、敵方である石田三成が、大阪の細川屋敷に訪れ、細川ガラシャを人質に取ろうとします。しかし、細川ガラシャはそれを拒否し、侍女や婦人を逃がした後に家老の小笠原秀清に介錯を頼み、遺体が残らぬよう屋敷に爆薬を仕掛けて自害したのです。

細川ガラシャが残した辞世の句は、『散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ』。人であれ花であれ、散るその時をわきまえてこそ美しい、そのような意味になります。細川ガラシャは、武士の妻であれば、命を乞うて無様に生き延びるよりも、潔く散ってしまったほうが……と考えたのでしょうか。逆臣の娘として幽閉され、再び人質として捕らわれることに、堪えがたいものがあったのかもしれません。この辞世の句は、細川ガラシャの人生をなぞらえた深い意味合いを持つ一句といえるではないでしょうか。

細川ガラシャは戦国一の美女とうたわれていた!その噂の真実やいかに!

細川ガラシャが、今日まで名の知られる戦国時代の女性となったのには、隠れキリシタンということだけではなく、「戦国一の美女」とうたわれていたこともあります。細川ガラシャが戦国一の美人であったかについては、細川氏の書いた文献『細川家記』にも記されています。なんと、舅や豊臣秀吉でさえ、細川ガラシャの美貌には驚いたと記されていますから、その美しさは間違えようのないものだったようです。

また、細川ガラシャの夫・細川忠興も、顔が整っている美男だったと言われており、美男美女の夫婦だとも伝えられています。美しすぎる細川ガラシャに対する、夫・細川忠興の異常なまでの嫉妬心が引き起こしたエピソードの数々こそが、細川ガラシャの美人ぶりを際立たせるともいえるでしょう。

例えば、細川ガラシャの美しさに見とれていた植木職人を手討ちにしたことや、細川ガラシャを他の男に見せることを拒絶し、豪勢な奥御殿を建てたのは有名な話です。細川忠興の嫉妬はそれだけでは収まらず、上杉討伐の際には、「もしも、彼女の貞操が脅かされる危険が迫ったら、彼女を殺して、家臣も切腹するように」と命じたといいます。どの話も、細川ガラシャが美しいゆえに、守りたい気持ちから出たもの。しかし、男性の独占欲の深さといったら……

細川ガラシャゆかりの教会とは?子孫、家系図を追う!

細川ガラシャのゆかりの教会『玉造教会』とはいったいどんなところ?

細川ガラシャのゆかりの地として、数々のスポットが残る大阪には、細川ガラシャゆかりのスポットとして有名な『玉造教会』、またの名前を『大阪カテドラル聖マリア大聖堂』という教会もあります。玉造教会は、1894年に建てられて、戦争によって焼失してしまいますが、1963年に今の教会が再建されました。

玉造教会が細川ガラシャとゆかりの教会といわれている理由、それは、玉造教会から北西に歩いて2分ほどのところに細川家の屋敷があったとされているためです。細川家の屋敷があったとされるその場所には、『越中井』が残されており、そこは、かつて台所があった場所。越中井には、細川ガラシャの辞世の句が刻まれた碑も残っています。

玉造教会の大聖堂は、広さ2450㎡、高さ20mとかなり大きい造りです。その広場の両端には、細川ガラシャと、キリシタン大名で知られる高山右近の像が建てられています。大聖堂の中へ入ると、目を引くのはステンドグラスと壁画。玉造教会の正面にある壁画は大変珍しく、マリア様が着物を着ている絵柄になっています。さらに左右には、細川ガラシャと高山右近の壁画も。ステンドグラスは100枚の窓すべてにはめられているので、圧巻の光景です。

玉造教会のあるこの場所は、細川ガラシャだけでなく、現在放送されている大河ドラマでおなじみの真田幸村にゆかりのある場所も多いといいます。細川ガラシャゆかりの教会とあわせて、戦国の歴史に思いをはせてみるのもいいかもしれません。

細川ガラシャの子孫は残っているのか!?細川氏の家系図を追ってみよう!

細川ガラシャは、夫の細川忠興が上杉討伐に行っている間に自決してしまいましたが、細川ガラシャと忠興の子孫は現在もいるのでしょうか?それを紐解くには、細川氏の家系図を見てみなければなりません。

細川ガラシャと細川忠興の間には、5人の子供がいます。その中の、長男である細川忠隆の子孫が、今でも健在だそうです。その1人が、政治評論家である細川隆元。細川忠隆の子孫であり、必然的に細川ガラシャの血が流れていることになります。また細川隆元の甥である、細川隆一郎も細川ガラシャの血を引いているそうです。

現代において、細川ガラシャと細川忠隆の血を純粋に引いている有名人はこの2人のようですが、細川家として血を受け継いでいる有名人は他にもいます。それは、細川護熙氏。元首相であり、「殿」と称されもする細川護熙は、熊本藩の細川氏の血が流れています。熊本・細川氏は、細川ガラシャの三男・細川忠利が藩主となった後、代々受け継がれていくのですが、第七代当主の時点で、世継ぎができないまま死去。そこで、熊本宇士藩の細川氏が養子に入り、第八代目当主となり、続いていったそうです。

細川ガラシャの血も、熊本の細川氏の血筋も途絶えることなく、現代にまで続いていることに感動を覚えます。これからも途絶えることなく、続いていってほしいものです。

細川ガラシャ役で橋本マナミが13年ぶりの大河出演決定!大河「真田丸」で夢がかなった!

細川ガラシャは、明智光秀の娘。もちろん、今大変話題となっている大河ドラマ「真田丸」にも登場します。「真田丸」で細川ガラシャ役を演じるのは、2003年の大河ドラマ「武蔵」にも出演している橋本マナミです。13年ぶりに出演する大河ドラマということで、橋本マナミも気合十分。「もう一度大河に出ることを目標にして、着付けや日本舞踊を習っていた」と、スポーツニッポンのネットニュースで語っています。

大河ドラマは、一年かけて撮影する大舞台。出演したい俳優や女優も多いことでしょう。橋本マナミもしかりで、細川ガラシャ役として出演が決定した時は、「夢がかなって、本当に嬉しい」と語っています。
今回の「真田丸」で、橋本マナミは、細川ガラシャの本名である玉(たま)として出演します。収録は、淡い桃色の着物に十字架を下げた衣装で行われました。今回の役どころは、「武蔵」で演じた千姫とは違い、芯の強い凛とした女性ということで、橋本マナミにとっても、新しい挑戦となっているようです。

細川ガラシャが隠れキリシタンだったということもあり、ラテン語で賛美歌を歌うシーンもあるとのこと。時間の合間を縫って、ラテン語の賛美歌を歌って覚えた橋本マナミの全力投球の演技にも注目が集まります。
隠れキリシタンとして生き、壮絶な最期を遂げた細川ガラシャの強さ、そして凛としたしたたかさが、橋本マナミの演技を通じて伝わるといいですね。

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