2020年5月15日 更新
松田知幸(射撃)ロンドンオリンピックの雪辱!リオオリンピックは3度目の挑戦
松田知幸(射撃)ロンドンオリンピックでは金メダルの期待も!その実力は確かだった!
松田知幸(射撃)にとって、リオオリンピックは、北京、ロンドンオリンピックに続く3回目の大舞台となります。2015年5月、ドイツのミュンヘンで行われたライフル射撃のワールドカップで、男子50mピストル競技の第3位となり、リオオリンピックの出場枠を獲得した松田知幸は、神奈川県警察に所属する巡査部長。1975年12月12日生まれの40歳という年齢は、各競技のオリンピック出場選手の中でも、決して若いとはいえません。
そんな松田知幸が、初めてオリンピックに出場したのは、32歳の時の北京大会でした。直前のワールドカップでの優勝を引っ提げての北京オリンピックでは、8位入賞と大健闘を見せています。2年後の世界射撃選手権では、50mピストルとエアピストルの2種目で金メダルを獲得し、2012年のロンドンオリンピックへの出場を、一番乗りで決めた松田知幸。プライベートでのジーパン姿から「ジーパン刑事」とマスコミで報道されるなど、国内での松田知幸へメダルの期待は最高潮となっていました。
松田知幸(射撃)リオオリンピックにも魔物はいた!3度目の挑戦で悪夢が再来
松田知幸(射撃)が、実績、気力共に満を持して挑んだ2012年のロンドンオリンピック。人々は、松田知幸のメダルは間違いないものと信じて疑わず、金メダルすら頭をよぎったものでした。ところが、蓋を開けてみれば、エアピストルは13位、50mピストルでは13位と、どちらも予選で敗退してしまうことに。松田知幸が、オリンピックに住む、プレッシャーという魔物に負けた瞬間でした。
その雪辱を晴らすべく、「メダル1号」を誓って、リオオリンピックへと向かった松田知幸。しかし、8月6日のエアピストル競技では、576点の22位。上位8人が出場する決勝へと駒を進めることができませんでした。最後の1発を打ち終えた瞬間、松田知幸は、その場に立ち尽くして動けずにいました。敗因を、序盤に慎重になりすぎて、ミスを連発してしまったこと。公務員の星であり、中年の星でもある松田知幸は、またしてもプレッシャーに負けてしまったことを悔い、「気持ちの整理がつかない」と涙を浮かべました。
松田知幸(射撃)は結婚している?出身高校、大学、競技を始めたきっかけは?
松田知幸(射撃)は結婚して嫁あり!息子へ継がれる父親から受け継いだ警察官魂
松田知幸(射撃)は、警察官という身分ですから、普段からメディアに登場することはなく、射撃という競技自体も非常にマイナー。そのため、プライベートの情報は薄いものの、結婚していることは分かっています。妻の名前は松田寛子。侑大、康生という2人の息子にも恵まれています。松田知幸の父親は、神奈川県警の警察官でした。父親の背中を見て育った松田知幸は、幼い頃から家業を継ぐ感覚で、「警察官になる」と考えていたそうです。
父親は、松田知幸に、自分のことを語らない、寡黙な男でした。警察官採用試験が迫ったある日、松田知幸が父親に、初めて警察官を志望していることを告げた時にも、「そうか。きついけど、いいのか」とだけ言ったそうです。警察学校の初任科では、想像上の警察官とかけ離れた現実に、かなり戸惑ったといいます。この経験で、より父親の偉大さを痛感した松田知幸。警察官でありながら、オリンピック選手としてのストイックなその背中には、息子たちが続いていると思うと頼もしい限りです。
松田知幸(射撃)は私立横浜商科大学高校卒業後に警察学校へ!射撃との出会いは偶然だった
松田知幸(射撃)は、私立横浜商科大学高校を卒業しています。横浜商科高校は、剣道やゴルフなど、多くの運動部が、全国クラスで活躍するスポーツ強豪校ですが、当然のことながら「射撃部」はありません。高校時代の松田知幸が所属していたのは、現在の競技とは全くかけはなれた、バレーボール部だったそうです。大学には進学せず、高卒採用枠で警察官採用試験に合格した松田知幸。
彼が射撃と出会ったのは、警察学校のカリキュラムにあったピストル競技でした。射撃テストの成績が良かった松田知幸は、指導者を養成する「特別訓練生」に選出されます。しかし、当初は本人の関心が非常に薄く、訓練生15人のうちでは、最も居残り練習を課せられる回数が多い劣等生だったそうです。
松田知幸(射撃)警察学校の劣等生からオリンピック選手へ!ストイックな精神が凄まじい!
松田知幸(射撃)は、ピストルを撃ちたいがために警察官になったわけではありませんでした。射撃との出会いは、偶然が重なった結果。そして、松田知幸に父親から受け継いだ男気と、バレーボールで培った負けん気がなければ、オリンピック射撃選手とはならなかったでしょう。当初は無関心だった警察学校での射撃訓練。松田知幸は、訓練生に選抜された精鋭たちの中で覚えた劣等感と敗北感に、打ちのめされたのではなく、かえって競技にのめり込んでいくきっかけとなったと話しています。
それからは、日常生活の全てが、”鍛錬”に代わっていきます。片道30分の電車通勤は、正確な射撃に不可欠なバランス感覚を養うため、決して吊革には掴まりません。趣味においても、狙ったボールにボールを衝突させるビリヤードや、狙ったポイントにルアーを投げ入れる釣りなど、”狙い撃ち”を常に意識したものを心掛けました。2002年頃には全国レベルの選手となっていた松田知幸は、母国・オーストラリアでオリンピック金メダリストを輩出したドゥシャノフコーチと出会います。
当時、日本代表コーチをしていたドゥシャノフは、松田知幸の伸びしろをいち早く発見。警察学校を凌ぐ厳しい練習の末、みるみる間に世界トップレベルに成長していきました。松田知幸の2008年ワールドカップ優勝は、日本人射撃選手としては初戴冠。2010年の世界選手権の2冠は、史上初の快挙でした。
松田知幸がオリンピックでまだ無冠であることには、魔物の存在を肯定せざるを得ません。「マイナーな射撃を知ってもらうためには、メダルしかない」と語る松田知幸。リオオリンピックでは、エアピストルでは敗れはしたものの、まだ50mピストル競技にリベンジのチャンスは残されています。2時間を超える長丁場を戦う背中に圧し掛かるプレッシャーは過去最大級。それに立ち向かう松田知幸の姿は、息子のみならず、全国民に感動を与えるはずです。