細川護熙が殿様と呼ばれる家系図!細川ガラシャとの関係は?
細川護煕は世が世であれば肥後熊本藩細川家18代目当主
細川護熙は、戦国大名細川忠興から数えて、第18代目細川家当主にあたります。殿様として生まれ、新聞記者となり、知事から国会議員、そして総理大臣にまで上り詰め、今は陶芸家という経歴を持つ政治家は、彼をおいて他にいません。この世が世であれば、肥後のお殿様だった細川護熙が、熊本県知事を2期8年も勤め、1993年にはなんと政党を作って内閣総理大臣となり、日本のトップになったのですから、歴史というものは不思議なものです。
しかし、そんなお殿様の治世が、たった1年も続かなかったのはまた、歴史の皮肉というものでしょうか。
細川護煕は有名な細川ガラシャ夫人の直系子孫ではなかった?!
細川護熙の連なる細川家といえば、細川忠興の正室で、キリシタンに帰依した明智光秀の三女であるおたま、細川ガラシャ夫人の悲劇の最期が有名です。細川忠興が、上杉景勝征伐で国を離れたのに乗じ、敵となる石田三成が、細川ガラシャを人質に取ろうとしました。
しかし、細川忠興は、自分が不在で敵に攻められた折には、残った家臣は切腹、妻は自害するようにと指示し、細川ガラシャ夫人は、主人の教えに従って自害。屋敷も、自らの死がいが見つからないよう、家臣に爆破を命じたと伝えられています。徳川時代になると、肥後熊本藩の当主となった細川ガラシャの子孫は、第7代で途絶えてしまいました。
そのため、細川忠興の側室の子、立孝が藩祖となり、熊本宇土藩の第7代目当主細川立礼が、名を斉滋と改めて、肥後熊本藩の第8代目当主に。こうして細川家は、徳川の世を経て、明治、大正、昭和、平成と途絶えることなく続き、細川護煕が、細川家の第18代目当主となったのです。
細川護熙の学歴、経歴!細川内閣の評価と退陣理由は?
細川護煕は新聞記者を経て、参議院議員、県知事から再び議員となって、たった1年で内閣総理大臣に!
細川護煕は、1938年生まれで、現在78歳になります。肥後熊本藩細川家の第18代目当主として、何不自由なく育ち、東京の上智大学を卒業後は、朝日新聞記者となりました。1993年、自由民主党から全国区で参議院議員に立候補して当選。議員を2期勤めた後、今度は、熊本県の知事選に出馬し当選すると、1983年から1991年まで、2期8年間にわたって知事を勤めます。
そして今度は、1992年の参院選で、日本新党を結成して、再び参議院議員に。さらに翌1993年の衆議院議員選挙に鞍替え立候補し、細川護熙は、衆議院議員となりました。この選挙で自民党、社会党が大敗すると、ついに自民党、社会党の2大政党による55年体制が崩壊します。
すると、自民党から分裂した新生党と、社会党、公明党、民社党、社会民主連合の5党の連立、そして自民党だけではともに過半数に届かず、選挙の台風の目となった、細川護煕の日本新党と新党さきがけが、キャスティングボートを握ることに。こうして、非自民勢力・民主改革連合を加えた8党派による連立政権が樹立します。自民党は下野したことから、細川護煕は、当選たった1回で、ついに連立政権の内閣総理大臣に上り詰めました。
細川護煕お前もか!佐川急便不正融資問題で三日天下
細川護熙の天下も、しかし1年と持ちませんでした。自民党が下野するきっかけとなったさまざまなスキャンダルの中に、佐川急便による闇献金や不正融資事件がありましたが、細川護煕が自民党時代、佐川急便から1億円を借用したままという疑惑が浮上したのです。1994年2月8日、問題はうやむやのまま、細川護煕は首相を辞任します。そして60歳で、あっさりと政界を引退。以後、野党は流動化して集合離散を繰り返し、2009年に、ようやく民主党による政権が誕生しました。
しかし、東日本大震災や福島原発の稚拙な対応、沖縄の基地問題などで国民の信を失った結果、2012年以降は、再び自民党安倍政権による保守回帰の政治が続いています。細川護煕は、政治的に何かを成し遂げたというよりは、戦後の55年体制に終止符を打った政治家として、戦後政治史に名を残すことでしょう。
細川護煕が義侠心で開催した国内初の春画展に21万人!
細川護熙以外に戦後政治史に名を残すといえば、もう一人、国民の圧倒的支持を得た、郵政改革の小泉純一郎元首相がいます。先日の都知事選では、この元首相2人が席を並べ、都知事選には一切関知しないと表明しながらも、「前は『女は愛嬌、男は度胸』と言ったが、最近は女も度胸がある」と、小池百合子氏にエールを送ったことは、少なからず、小池百合子旋風の起爆剤になったといえましょう。
ともにいさぎよく政界を引退しながらも、細川護熙と小泉純一郎の2人、まだ目が離せません。先日、細川護煕は、TBS「情熱大陸」に出演し、相変わらず多忙な近況が伝えられました。2015年、細川護煕が理事長を務める東京・目白台の永青文庫で開催された、国内初の「春画展」。細川護煕は、多くの美術館が開催を尻込みする中、江戸文化の極地ともいわれる春画に、義侠心から開催を決めたそうですが、フタを開けてみれば、なんと21万人の観客を動員し、大いに話題となりました。
細川護煕は、すでに陶芸家として有名ですが、日本画にも挑戦しており、新米絵師としては異例の大抜擢で、奈良薬師寺の障壁画プロジェクトにも取り組んでいます。壁面66面、完成まで約7年がかりとなる大作だそうです。細川護煕は、よくも悪しくも生まれながらにお殿様なのでしょう。なかなか、このような贅沢な人生を送れる人はいません。しかし、細川護熙の気まぐれに振りまわされた人々は、たまったものではなかったでしょうね。