明智光秀の子孫は坂本龍馬だった!?母親を織田信長に殺されたって本当?

明智光秀の子孫は坂本龍馬だった!?母親を織田信長に殺されたって本当?

明智光秀の子孫は坂本龍馬だった!?その真相は!

明智光秀は、天下の謀反人として有名な戦国武将。その子孫に坂本龍馬がいるという噂があります。数々の逸話や伝承がその根拠となっているようですが、その1つが、両家が使用する「桔梗紋」です。家紋が同じということは、やはり何かしらの関係があると考えてもよさそうです。

実際、坂本龍馬は明智光秀の子孫であるとハッキリ書いてある情報サイトもあります。また、坂本家には、「明智光秀の娘婿である明智左馬助の末裔が坂本家である」との伝承が残っているとか。ますます信ぴょう性が高いようにも思われる話です。こうした噂や疑問に対して、高知県立坂本龍馬記念館では、「血縁関係を示す資料がない」ので分からないとしつつも、「資料がない=否定していい」とはいえないとのこと。

現在までの研究においては、明智光秀の子孫が坂本龍馬かという噂に対する答えは、「そういう説もある」というくらいが妥当といえそうです。

明智光秀は母親・お牧の方を織田信長に殺されたって本当?

明智光秀は、本能寺の変で織田信長を討ちますが、その織田信長によって、母親・お牧の方を殺されているとの説があります。これは、織田信長が明智光秀に命じた丹波国平定に端を発する出来事。明智光秀は、八上城を包囲して兵糧責めを行い、和議を勧めましたが、八上城の波多野三兄弟は応じませんでした。

このため、自分の母親であるお牧の方を、八上城に人質として出すことを条件に、波多野三兄弟を降伏させます。なんとか和議が成立させた明智光秀は、波多野三兄弟を伴って安土城に向かいますが、織田信長は、滋恩寺町で、波多野三兄弟を磔にしてしまいました。

これに激怒した波多野家の家臣が、明智光秀の母親・お牧の方を、磔にして報復したとか。しかし、この一連の出来事を、後世に伝える根拠となっている「創見記」は、かなり脚色されている様子で、坂本龍馬との血縁関係の有無の話と同様に、信頼に足る資料が残っていないのが事実。どうやら、明智光秀の母親・お牧の方が織田信長に殺されたという伝説も、「そういう説もある」ということになりそうです。

明智光秀の名言から見る人柄!南光坊天海とは同一人物か?

明智光秀の名言から垣間見られ人柄とは!

明智光秀は、有名な「敵は本能寺にあり」をはじめ、人柄がうかがわれる名言をいくつか残しています。本能寺の変によって逆賊のイメージが強い明智光秀ですが、実際は、政治力に優れ、領民から慕われた名君であったようです。「仏の嘘は方便という。武士の嘘は調略という。

ならば、百姓の嘘など可愛いもの」と言ったと伝えられる明智光秀。これは、年貢をごまかしたくらいで百姓を罰してはいけないという意味になります。この名言からも、実務家で、知性あふれる明智光秀の人柄が垣間見えるようです。また、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康三者の気性を表す言葉として有名な「鳴かぬなら~」から始まるホトトギスの句がありますが、実は、明智光秀版もあります。

それが「鳴かぬなら 私が鳴こう ほととぎす」「鳴かぬなら 放してしまえ ほととぎす」の2句です。さまざまな解釈ができそうですが、言葉通りに受け取れば、明智光秀の優しさを言い当てているともいえそうです。

明智光秀と南光坊天海とは同一人物か?

明智光秀は、実は、本能寺の変で死んでおらず、姿を変えて生き延びていた……そのような説があることをご存じでしょうか。明智光秀が姿を変えたとされているのが、南光坊天海なる人物です。南光坊天海とは、徳川家の家臣として、江戸幕府初期の政策に深くかかわった人物ですが、出自は謎に包まれています。

生年は不詳で、桓武平氏系統に連なる蘆名氏(あしなし)を出自とする説や、足利将軍の落胤であるとの説などもあります。ここに加えられているのが、明智光秀と同一人物であるという説です。根拠の1つとして上げられるのが、明智家の「桔梗紋」。南光坊天海も関わったという、徳川家の墓所でもある日光東照宮に、桔梗紋が使われているためです。

この他にも、本能寺の変の後に明智光秀の「首実検」がされていないとか、春日局と南光坊天海が面会した際に無沙汰を詫びたなど、明智光秀は南光坊天海と同一人物説を支える噂はいろいろとあります。

明智光秀は本当に裏切り者なのか!?本能寺の変の真相とは!

明智光秀は、本能寺の変で織田信長を討ち、天下の謀反人としてのイメージが強い戦国武将です。しかし、この本能寺の変のいきさつには、かなりいろいろな説があります。明智光秀が織田信長に反旗を翻した理由は、母親のお牧の方を殺されたからというものも含めて、その数は50以上にもなるそうです。教科書にも載っていて、誰もが知る史実ではありますが、その真相はといえば、いまだ解明されていない戦国史の謎となっています。

現在、現実味を帯びているといわれているのは、明智光秀には、織田信長に反乱する理由が明確にはなく、豊臣秀吉や徳川家康との共謀だったという説。歴史の勝者が、自分たちの都合の良いように、後から書物を書き換えてしまうことは歴史の常。明智光秀に関して考えてみれば、織田信長を打った逆賊としておかなければ、その次に天下人となった豊臣秀吉の大義が怪しくなっていたでしょう。

また、本能寺の変は、そもそも織田信長が徳川家康を暗殺するために京に呼び、安心させるために、本能寺に少人数で宿泊していたことに始まるともいわれています。自らの暗殺を察知していた徳川家康が、事前に、明智光秀や豊臣秀吉と共謀していたとの説もあるようです。これまでに多くの研究者や歴史愛好家が解明を試みてきましたが、本能寺の変の真相は、いまだ歴史の闇の中。本人に聞いてみるのが一番早いのですが、それも叶いません。

しかし、古今東西、さまざまな物語が生み出されてきたのは、こういった歴史の謎があるからこそ。いつか真相が明らかになることを願いつつも、さまざまに空想を巡らせておくのもいいかもしれません。

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