浜村美智子の年齢は?カリプソの女王の若い頃が美人すぎる!
浜村美智子は「バナナボート」でデビューして60年、御年80歳
浜村美智子は、1938年生まれの歌手。美空ひばりの1つ年下で、80歳になる今も健在です。もはや戦後ではない、といわれた昭和30年代初め、進駐軍がもたらしたジャズやスタンダード、歌声喫茶、そして日本の流行歌に飽き足らない人々は、新しい音楽、リズムに飢えていました。そこに舞い起ったのが、空前のマンボブームであり、その後に続くラテンリズム音楽の流行です。
中でも、日本の各レコード会社が、マンボの次に仕掛けようとしたのが、アメリカで大ヒットとした、ハリー・ベラフォンテが歌うカリプソ音楽「バナナボート」。当時の人気歌手であった江利チエミや旗照夫を投入し、激しい競作合戦となりました。そんな中、ハリー・ベラフォンテを日本に呼んで儲けようと企んだのがビクターです。ハリー・ベラフォンテ来日の話題作りのため、まさに、今のキャンギャル的な扱いで、無名の新人歌手だった浜村美智子を起用しました。
浜村美智子「バナナボート」のデビュージャケットはセミヌード!
浜村美智子は、1957年デビューした当時、まだ18歳でした。レコードジャケットの写真は、上半身裸で黒い下着だけの、うつぶせになったセミヌード姿。浅黒いエキゾチックな美貌と、すらりと伸びた肢体は、ビジュアルインパクト絶大でした。もともとジャズを歌っていた浜村美智子。アルトでパンチのある声で歌う「バナナボート」は、他のどの歌手が歌う「バナナボート」より、際だって「カリプソ」的でした。浜村美智子のバナナボートは、発売後まもなく30万枚を売り、現在までにミリオンセラーを記録しています。
浜村美智子「バナナボート」「監獄ロック」カバーの実力!結婚は?
浜村美智子が紅白初出場で「バナナボート」を歌うことができなかった仰天エピソード
浜村美智子は、「バナナボート」で爆発的人気となり、同年の紅白歌合戦にも出場します。しかし、この「バナナボート」は、男性コーラスのパートがほとんど。当時の紅白歌合戦では、たとえコーラスでも、男性歌手といっしょに歌うことができませんでした。
そこで、浜村美智子は仕方なく、同時期に人気に火がつき始めたロカビリーの「監獄ロック」を歌ったという、今では考えられないエピソードがあります。浜村美智子は、続けてアルバム「カリプソ娘」を出し、翌1958年には、「ジャズ娘に栄光あれ」という映画で主演も果たしました。また、1960年7月10日に、ハリー・ベラフォンテが来日した時には、羽田空港で彼を出迎えています。
浜村美智子は一発屋でもマイペースで、1963年プロボクサーと結婚
浜村美智子は、デビューのイメージが強すぎたせいか、その人気はたちどころに萎んで、今でいう一発屋の走りとなってしまいます。浜村美智子自身も、かなり個性的で、マイペースな性格だったようです。当時のインタビューには、「カリプソはあまり好きじゃない。仕事だから仕方なく歌っているけど、そんなにはやらないと思う。本当はジャズのスタンダードで、スローなものが好き」と答えています。
浜村美智子は、その後1963年、プロボクシング東洋ライト級チャンピオンだった小坂照男との結婚をきっかけに、一旦は芸能界を引退します。
浜村美智子はもしかしたら30年生まれるのが早かった?!
浜村美智子は、結婚引退から2年後となる1965年、「拳銃は、最後の武器だ!」が決め台詞で人気だった、少年向け特撮番組「忍者部隊月光」で、悪の組織の女幹部役を演じ、女優として再注目されます。歌手としては独自に、ダンスパーティーや、ディナーショーのステージを中心に、マイペースに続けていました。1972年には、NHKの「思い出のメロディー」に出演し、浜村美智子は、歌手として本格的に復帰します。
これをきっかけに出した「黄色いシャツ」は、韓国人歌手・孫夕友のカバーだったことから、韓国の大韓放送協会に招かれ、まだ軍事政権下だった韓国で、初めて生放送番組に出演した外国人にもなりました。そして先日は、80歳にして初めて、「徹子の部屋」に出演。黒柳徹子に劣らないユニークな衣装で登場した浜村美智子は、スタジオをどよめかせていました。もし、今の時代に浜村美智子がデビューしていたら……、たとえ歌は一発屋で終わっても、そのエキゾチックな美貌やファッションだけでも十分注目されたかもしれません。
あるいはまた、個性的でストレートなトークが、バラエティ番組で重宝されて、マルチタレントとして結構活躍していた可能性も。しかし浜村美智子は、決して芸能界に振り回されることなく、この60年間、自分が好きな歌を歌い続けてきました。もしかしたら、浜村美智子は、30年早く生まれてしまった、超現代的な女性なのかもしれません。