和田青児の独立理由は北山たけしの結婚だった?結婚や娘、「寿」に込めた思いとは?
和田青児の独立は北山たけしが結婚したから?
和田青児(わだせいじ)は、16歳の時に、藤堂哲也という名前でキングレコードから歌手デビューした過去があります。しかし鳴かず飛ばずで、わずか1年で挫折して福島へ帰郷。高校卒業後に再上京して、北島三郎の付き人を11年間務めながら修行に励みました。
1999年に、北島三郎プロデュースで和田青児の名でデビューすると、「上野発」で第32回日本有線大賞と第41回日本レコード大賞で新人賞をW受賞。2012年には北島音楽事務所から独立し、個人事務所「ワズ・コーポレーション」で活動を続けています。和田青児や山本譲二、小金沢昇司らが相次いで北島三郎の元から独立したのは、北島三郎の次女が、彼らの弟弟子の北山たけしと2009年に結婚した影響だとか。
自身の後継者に指名すると決めた義理の息子・北山たけしが、和田青児ら兄弟子よりも上の立場にいくことを問題視して「のれん分け」という形で独立させたようです。和田青児たちは現在も北島三郎と円満な関係を築いており、歌番組やコンサートなどでも多数共演しています。
和田青児の結婚した妻や、娘は?父親の心境を描いた名曲「寿」は結婚式でも人気!
和田青児は、再デビューした3年後、32歳の時に結婚しています。一人っ子の母子家庭で父親の存在を知らずに育った和田青児ですが、自身は妻との間に2人の娘をもうけました。和田青児は娘のことをとても大切にしているようで、2013年発売の「寿」を歌うと、つい涙ぐんでしまうと言います。
娘の結婚式での父親の心境を描いた「寿」は、実際の結婚式でもよく歌われている人気曲。和田青児の娘たちが結婚の日を迎えるのはまだ先のことですが、彼女たちの将来を想像するとジ~ンと胸に迫るものがあるそうです。いつか来る娘たちの結婚式では、和田青児は絶対に泣いてしまって歌えないため、すでに他の人に歌ってもらうよう依頼済みだと明かしています。ちなみにこの曲のジャケットに印刷されている寿の一文字は、和田青児が自ら筆で書いたものです。
和田青児の「望郷縁歌」がカラオケで人気のワケ!スリランカからコンサートをオファー
和田青児の「望郷縁歌」は歌いやすい?カラオケ人気曲ランキング!
和田青児は、北島三郎の事務所を独立して以降は、星つかさというペンネームで、自ら作詞・作曲もするようになりました。女性カラオケファンからも多く支持されているのに、男の気持ちを歌った曲ばかりだった和田青児ですが、「燃えて咲け」では初めて女歌に挑戦しています。
最近は、カラオケ喫茶やカラオケ大会で和田青児の曲を歌ってくれるファンに寄り添った曲作りを意識し、テンポやキーなどを歌いやすく作っているそうです。その思いが通じてか、2017年発売の「望郷縁歌」は、和田青児の曲の中でカラオケ一番人気に。2位も「望郷縁歌」のカップリング曲の「人生ふたり花」です。
3位は、2011年に発売された和田青児の代表曲ともいえる「仕事(たび)の宿」で、4位は2016年発売の迫力溢れる「竜虎伝」。5位は2015年にリリースした本格演歌「男の懺悔」となっています。
和田青児がスリランカからコンサートをオファー!「燃えて咲け」で大注目
和田青児が2016年11月にリリースした曲「燃えて咲け」が、なぜかスリランカで人気となり、突然コンサート開催の依頼が舞い込んだそうです。インド南東に位置し、かつてセイロン島と呼ばれていた紅茶の名産地スリランカで、YouTubeを見たのか、CDを入手したのか……曲をいたく気に入ったという政府関係者から和田青児へ連絡が来たのは2016年のこと。
カップリング曲の「みんなの世界」は、巣鴨児童合唱団の子供たちと和田青児がともに歌うという新たな一面を見せた一曲でしたが、こちらもスリランカ政府関係者から「子供たちに歌ってほしい」と絶賛されているとか。コンサートでは、スリランカのシンハリ語か英語で1曲は歌ってみたいと意気込んでいた和田青児。
しかし開催予定だったコンサートは、甚大な被害をもたらした記録的大雨にスリランカが襲われた影響で、直前になって中止となりました。そのまま2017年は開催見合わせとなったため、2018年以降の開催を目指して再調整中とのことです。
和田青児の酒の失敗に北島三郎も絶句!3カ月間絶対安静の入院生活も送っていた
山本譲二に憧れて歌手を目指した和田青児は、一度挫折を経験した後の再上京では、山本譲二の師匠・北島三郎に教えを乞うことにしました。付き人になった和田青児は、車で北島三郎を自宅まで送り届けた後、歌舞伎町で毎晩浴びるように酒を飲み歩き、そのままサウナで朝を迎えて北島三郎のもとへ行くという、驚きの生活を送っていたと言います。
しかし26歳のある日、重度のアルコール性肝障害とB型肝炎で生命の危機に瀕し、3カ月間絶対安静の入院生活を送ることに。青い空が黄色く見え、便は白くなり、真っ赤な尿が出て、「体がヤバい」という自覚はあっても、酒はやめられなかったという和田青児。病院で寝ている間も、酒を辞めようという思いは一切湧いてこなかったという筋金入りです。
師匠や兄弟子たちには酒好きであることを伏せていたため、突然の入院に、北島三郎は「お前どうしたんだ……」と絶句。29歳で再デビューした後も酒は止められず、酔っては脱いだり喧嘩したりのトラブルで警察のお世話になったことも数え切れないほどとか。
医師に忠告されても、32歳で結婚しても、朝まで飲み歩く生活は止められず、ようやく自重できるようになったのは35歳を過ぎたころでした。しかし酒を断ったわけではさらさらなく、「0時には止める」というマイルールの制定と、毎日豆腐を1丁食べることと、軟水を毎朝たくさん飲むことを心掛けるのみ。今でも軽く一升瓶を開けるほどには飲むそうです。
酒で迷惑をかけて後悔してばかりだと述べながらも、芸の肥やしは「酒とネオン」だと豪語する和田青児は、酒を飲まないイマドキの若手歌手たちには否定的。とはいえ、まだ小さな娘たちのためにも、酒はほどほどに、健康第一で末永く活動を続けていってもらいたいものです。