小林繁は「江川卓に人生を狂わされた悲劇のヒーロー」か?死因は心筋梗塞だった

小林繁は「江川卓に人生を狂わされた悲劇のヒーロー」か?イケメン投手の現役時代の成績は?

小林繁は「江川卓に人生を狂わされた悲劇のヒーロー」か?電撃トレードに至った経緯とは?

小林繁(こばやししげる)は、巨人と阪神でエースとして活躍した元プロ野球選手。世間を騒然とさせた「江川事件」で阪神へ電撃トレードされたことから、「江川卓に人生を狂わされた悲劇のヒーロー」と語られがちです。1971年オフのドラフト会議で巨人から6位指名を受け、翌年に入団を表明した小林繁は、徐々に力をつけ、1976年からは2年連続18勝を挙げるなど、巨人のエース格に成長しました。

そんな彼の野球人生が激動に見舞われたのは、1978年の「江川事件」、またの名を「空白の一日事件」がきっかけです。同年のドラフト会議直前に、法政大学のエースとして名を馳せていた江川卓は、強引なやり方で巨人との入団契約を交わします。しかし、異議を唱えた阪神がドラフト会議で江川卓を指名したことから事態は紛糾。決着をつけるため、江川卓が阪神と契約を結んだ直後に巨人へトレードに出されることになりました。

その時、巨人から阪神への交換トレード相手に指名されたのが小林繁です。あまりにも突然すぎる電撃トレードでしたが、小林繁は、「同情は買いたくない」と阪神入りを受諾。その姿は世間の賞賛と同情を呼び、阪神の春季キャンプ地・高知県安芸市には、彼の姿を一目見ようと詰め掛けたファンがあふれ、国道が3kmにも渡って渋滞したとも言われています。

小林繁の阪神移籍1年目は、エースとして獅子奮迅の力投を見せ、古巣の巨人をもきりきり舞いさせるなど、面目躍如のシーズンでした。しかし以降は、右ひじの状態が悪化し始め、満足な状態でのプレーがかなわなくなり、翌1983年に、31歳の若さで現役を引退。以降は、野球解説者やスポーツキャスター、タレントなど多方面で活躍したほか、参議院選挙に出馬するなどして話題を集めました。

指導者としては、大阪近鉄や韓国プロ野球で手腕を見せた後、北海道日本ハムのコーチとして期待されていた中、突然の訃報が伝えられることに……。存命であれば、後進の育成が期待できる人物だっただけに、非常に残念なことです。

小林繁本人の想いは分かりませんが、「江川事件」を境に人生の歯車が徐々に狂いはじめ、波乱万丈の人生を送ったことはたしかでしょう。晩年に、因縁を伝えられた江川卓とCMに共演を果たした時には大きな反響を呼びました。

小林繁の現役時代の成績は?細身の体で力投する姿は今も語り草に!

細身の体を弓のごとくしならせ、渾身の力投でバッターを圧倒する小林繁の雄姿は今もファンの語り草となっています。彼の現役時代の通算成績は、11年間で、374試合に登板し、139勝95敗17セーブで、防御率3.18。投球回数は、2029と1/3回です。先発268試合中、96完投19完封、1273奪三振を記録し、最多勝を遂げたのは1回。そのほかに、最優秀投手2回、沢村賞2回、ベストナインも2回受賞しています。

1976年は、18勝8敗(2セーブ)、防御率2.99の成績を挙げ、プロ入り初の2桁勝利を達成しました。勝利数と防御率は惜しくもリーグ2位でしたが、投手陣の中心として、2年ぶりの巨人のリーグ優勝に大きく貢献。優勝決定試合では胴上げ投手となるなど、大車輪の活躍を演じています。翌1977年シーズンも、18勝8敗(7セーブ)、防御率2.92の成績で、2年連続となる巨人のリーグ優勝に貢献。勝利数と防御率のタイトル争いを制することはできなかったものの、活躍ぶりが評価されて、沢村賞とベストナインに選出されました。

しかし圧巻は、何と言っても「江川事件」の末に阪神入りした1979年シーズンでしょう。移籍1年目にして、22勝9敗(1セーブ)、防御率2.89の成績を挙げ、最多勝タイトルに輝いた小林繁は、2度目の沢村賞に選出されるなど、エースとして大活躍。古巣の巨人戦では、普段のクールでイケメンな雰囲気とは打って変わって、闘志むき出しの力投を見せ、驚きの8連勝を飾りました。以降は成績が低下していっただけに、このシーズンの活躍で燃え尽きてしまったのかも知れません。

小林繁の死因は心筋梗塞だった……熱愛を噂された女性は?

小林繁の死因は心筋梗塞による心不全……喪主を務めた女性は内縁の奥さんだった

57歳という若さにして死去した小林繁の訃報は、大きな衝撃でした。2009年からは北海道日本ハムの2軍ピッチングコーチに就任し、亡くなった2010年は1軍に昇格したばかり。さらに指導力を発揮することが期待されていた矢先の訃報でした。5日前には来るシーズンに向けたコーチ会議に出席し、死の前日は東京都内で日本ハム本社の商品展示会に姿を見せ、いつもと変わらぬ様子だったと伝えられています。

小林繁の死因は、心筋梗塞による心不全。シーズンに向けて準備を進めていた中、自宅で「背中が痛い」と異状を訴え、病院に救急搬送された時点ですでに心肺停止状態に陥っており、蘇生措置も空しく息を引き取ったそうです。葬儀には、関係者や友人など約500人が参列し、最後まで野球に情熱を燃やした小林繁にふさわしく、「球愛院釋静繁」と言う法名が付けられました。

社会人時代に結婚した最初の奥さんとは、浮気が発覚して大ゲンカになり、1982年に離婚していた小林繁。子供は1男1女をもうけていたようですが、離婚に伴い、親権も手放しています。その後、再婚しましたが、別居状態の末に再び離婚。彼の最期を看取り、喪主を務めたのは、内縁の奥さんにあたる女性でした。

小林繁は中森明菜や藤圭子、小柳ルミ子らと熱愛?甘いマスクで女性にモテモテ!

甘いマスクとスリムでスタイリッシュな容姿に加え、クールで爽やかな雰囲気で女性ファンにモテモテだった小林繁。「江川事件」後の阪神入団会見での清々しい笑顔と受け答えで、人気はさらにうなぎ上りに。ダンディな小林繁は、女性関係も華やかだったと伝えられています。

熱愛を噂された面々もなかなか豪華な顔ぶれで、中森明菜もその1人。他にも、歌手の藤圭子や小柳ルミ子、女優の片平なぎさらの名前が挙がったことがありました。今となっては真相は闇の中ですが、彼の熱愛関係が、売れっ子タレントさながらに華やかだったことは事実のようです。

しかしその一方で、小林繁は常に孤独の影を抱えていました。手掛けていた事業の経営が悪化し、巨額の負債を抱え込んだ結果、2003年には自己破産。そのことが災いし、指導者として腕を振るう機会にもなかなか恵まれませんでした。

小林繁との約束を守った敦賀気比・東哲平監督!その魂が優勝旗を引き寄せた!

小林繁は晩年、福井県に居を構えていました。巨額の負債を抱え込んで仕事に恵まれなかった彼のため、阪神時代にチームメイトだった川藤幸三が、県内にあるゴルフ場支配人の働き口を紹介したことがきっかけだったと伝えられています。結果的には、自己破産したため支配人は辞することになりますが、スポーツ紙専属評論家や韓国プロ野球のインストラクターを務めるかたわら、引き続き福井県内にとどまりました。

そんな中、小林繁は、福井の少年野球チーム「オールスター福井」の総監督に就任し、指導を手掛けるようになります。彼の指導を受けた1人が、敦賀気比高校の東哲平監督です。「オールスター福井」を監督として指揮していた東哲平監督は、2008年に、母校でもある敦賀気比高校のコーチ就任を要請されました。

要請を受けるかどうか迷ったものの、小林繁から「後はいいから俺に任せろ」との言葉を受け、敦賀気比高校のコーチに就任。「将来は監督として北陸に優勝旗を持ち帰れ」という小林繁との約束を守るべく、文字通り身を投げうって同高校の指導に汗を流します。

そして、監督就任から5年目となった2015年春に、悲願の甲子園制覇を実現し、亡き小林繁との約束を果たしました。「優勝旗を北陸に持ち帰るため、今までやってきた」と語った東哲平監督。それは、まるで小林繁の熱い魂が優勝旗を引き寄せたかのようです。小林繁があの世に旅立って2018年で8年になりますが、今もその闘志は後進によって受け継がれています。

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