岡野雅行はガイナーレ鳥取の代表取締役GM!高校時代、キャプテンと監督を掛け持ちしていた

岡野雅行はガイナーレ鳥取の代表取締役GM!決勝ゴールを決めて嫁とゴールイン?!

岡野雅行の現在はガイナーレ鳥取の代表取締役GM!チーム資金確保のため漁師姿でPR?

元プロサッカー選手の岡野雅行(おかのまさゆき)は、1997年、ワールドカップ・アジア予選にて見事に決勝ゴールを決め、日本代表をワールドカップ初出場に導いたことでも知られる選手です。

「野人」のニックネームで覚えているファンも多いことでしょう。岡野雅行は現在、現役最後に所属したガイナーレ鳥取でGM(ゼネラルマネージャー)を務めています。スーツに身を包んでスポンサーを回る他、監督選任や選手の補強など、チーム強化にも携わっているそうです。

2017年からは代表取締役の肩書も加わり、チームの経営を一手に預かる立場に。慣れないGMを引き受けたのは、チーム育成に魅力を感じたからでした。とはいえ、ガイナーレ鳥取は、チーム基盤が盤石ではなく、経営は常に資金難と隣り合わせです。

そのため、試合会場設営のために看板を運んだり、若い選手の相談に乗ったりするなど、さまざまな役割もこなしています。チーム運営となれば、寄付金確保にも奔走しなければなりません。その一策として、寄付金へのお礼として、鳥取の海産物をプレゼントする「野人と漁師のツートッププロジェクト」を考案したのも岡野雅行です。

地元・境港水産物直売センターの後押しを得て、自ら漁師姿に扮してPRした甲斐あって、2014年には約3000万円の寄付金を集めることに成功しました。

岡野雅行は決勝ゴールを決めて嫁とゴールイン?!

嫁が美人妻であることでも知られていますが、実は、結婚に至ったのも、ワールドカップ初出場決定試合で決めた決勝ゴールと関係していたとか。嫁と交際していたものの、一度は別れた岡野雅行。しかし、件の決勝ゴールを決めた時、嫁から「ゴール見ました」と留守電に伝言があったことから交際が復活。めでたく結婚となりました。もしも、岡野雅行の歴史的ゴールがなかったら、嫁との結婚が実現しなかった可能性があったと考えると、まさに値千金のゴールですね。

岡野雅行は、1972年7月25日生まれで、神奈川県横浜市港北区出身。小学3年生の時にサッカーにのめり込み、中学校でもサッカー部へ。中学卒業後にブラジルへのサッカー留学を希望したものの、家族の反対に遭い、松江日本大学高校(現・立正大学淞南高校)へ進学。

わずか部員2人の状態から創設されたサッカー部を、島根県でベスト4入りするまでに成長させました。その後、一般入試で日本大学へ進学してサッカー部に入部し、俊足を活かしたプレースタイルを確立します。大学を中退して浦和レッドダイヤモンズ入りした後は、ヴィッセル神戸やガイナーレ鳥取でもプレー。2013年シーズンを最後に現役を引退しました。

岡野雅行の高校時代、キャプテンと監督を掛け持ちしていた!現役時代の100m走のスピードは?

岡野雅行の高校時代、キャプテンと監督を掛け持ちしていた!リアル「スクール・ウォーズ」

岡野雅行の高校時代のエピソードが強烈すぎると話題になっています。あの伝説の学園ドラマ「スクール・ウォーズ」を地で行くエピソードだというから驚きです。岡野雅行が進学した松江日本大学高校には、特攻服にマスク姿という典型的なヤンキーがあふれかえっていました。

寮のトイレの窓をあけただけでブザーが鳴るなど、脱走者対策として厳重な警戒態勢がしかれていたとも伝えられています。そんな中、覚悟を決めて理事長に掛け合い、サッカー部を創設。人数が必要なため、選手のスカウトからスタートしますが、集まったのはサッカーのルールすら知らない面々です。

顧問の先生も陸上専門だったため、仕方なく岡野雅行がキャプテンと監督を掛け持ちし、練習メニューや戦術を指揮しました。しかし、名うての不良高校とあって、相手校が怖気づいて練習試合が組めなかったり、初めての対外試合で乱闘騒ぎになったりと相次ぐトラブルに見舞われます。

そうした中でも、粘り強く説得を行った結果、サッカー部設立から半年後に見事勝利を挙げ、チーム全員が号泣。1年半後に県ベスト4入りするなど、急成長を遂げました。不良校がチーム一丸となり、勝利に向かって突き進む姿は、まさにリアル「スクール・ウォーズ」。この時の経験は、岡野雅行の人生の糧になっているに違いありません。

岡野雅行の現役時代は100mを10秒8で走った!

現役時代の岡野雅行は、長い髪を振り乱してフィールドを駆け巡る姿が印象的でした。決まって話題になったのがその俊足。まさに「野人」のニックネームにふさわしいものでした。彼の100mの記録は、10秒8です。現役日本人サッカー選手のタイムは、長友佑都も10秒8で、宮市亮が10秒87といった具合なので、トレーニング環境が飛躍的に向上した今の選手と比べても遜色ないことが分かります。

日本大学に進学した頃の彼のプレースタイルは、前線へ走る選手らにボールをパスするものでした。しかしある日、短距離走で自分のスピードに気付いた岡野雅行。自分で蹴ったボールに自分が追いついてシュートしてみたところ、「これは楽だ」と感じたことから、俊足を活かしたスタイルへと変更します。こうして、岡野雅行は、走るだけでスタジアム全体をどよめかせるまでの選手になりました。

岡野雅行の飼い主は中田英寿だった?「頭が真っ白だった」と語るVゴールの瞬間とは?

サッカー元日本代表の岡野雅行と、同じく日本代表として共にプレーした中田英寿の親交は有名です。一緒に食事に行くほどの仲ですが、年齢は、岡野雅行が5歳上。そのため、岡野雅行が先輩風を吹かせているのかと思いきや、実情は全然違っていました。

フジテレビ系「ジャンクSPORTS 3時間SP」で岡野雅行が語ったところによると、「ヒデ(中田英寿)が飼い主で、僕はただの犬」という関係だったそうです。とはいうものの、2人の間は、他人には分からない強い絆で結ばれていました。「ヒデがいたからこそ、サッカーができる」と語る岡野雅行の原点は、「ジョホールバルの奇跡」として今も語り継がれる1997年の決勝ゴールにあります。

彼はそれまで、アジア最終予選に出場するチャンスを与えられておらず、「日本代表を辞退しよう」とまで思い詰めていました。そんな岡野雅行を支えたのが、弱冠20歳にしてチームの司令塔を務めた中田英寿です。岡野雅行のスピードは「ぜひとも組んでみたい」と感じさせる魅力的なもの。

ジョホールバルでようやくピッチに立った岡野雅行にパスを集め、何とか決勝点をと狙いました。延長後半13分、ついに「その時」がやってきます。中田英寿のシュートを相手ゴールキーパーが弾くと、瞬時に反応し、ゴールを決めた岡野雅行。「何であそこに走っていたか覚えてないほど頭が真っ白」だったそうですが、あの試合を落としていたら「サッカーをやめていた」と振り返るほど大きな一打でした。

今後は、岡野雅行がGMとしての手腕を発揮しているガイナーレ鳥取から、次なる奇跡を呼ぶ選手が出てくることを期待するばかりです。

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