北里柴三郎の名言がアツい!ペスト菌発見や破傷風研究など功績多数でお札の肖像に

「日本の細菌学の父」といわれる北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)。日本を代表する医学者・細菌学者として知られる人物で、ペスト菌の発見に加え、破傷風の治療法を開発するなど、主に感染症医学の発展に尽力しました。

苗字は「きたざと」と「きたさと」どちらの読みが正しいのか迷う人が多いようですが、彼の故郷である小国町および同町にある北里柴三郎記念館などでは「きたざと」、都内にある北里研究所、ならびに2024年の上期を目途に発行される新千円札の肖像に選ばれたことを財務省が発表した際には、「きたさと」と濁らず発音しています。

正しいのは「きたざと」のようですが、「きたさと」の読みも広まっているのは、北里柴三郎が留学したドイツで「Kitasato」と署名していたことによります。ドイツ語では「sa」を「ザ」と発音するためでしたが、これがそのまま英語圏に広まり、一般に知られるところとなりました。

北里柴三郎は「ペスト菌」の発見者

東京医学校の同級生であり、同郷でもあった緒方正規の口利きにより、北里柴三郎は1885年にドイツの名門・ベルリン大学へ留学。同校では、コッホに師事していました。

結核菌や炭疽菌、コレラ菌を発見した細菌学者としても名高いドイツの医師で、「近代細菌学の開祖」と呼ばれるコッホは、細菌を培養する方法の基礎を確立した人物でもあります。また、現在も微生物や細胞の培養に使用されている寒天培地や、理科の実験でもおなじみのシャーレはコッホの研究室で発明されたものです。

1889年に世界で初めて、破傷風菌だけを取りだす「破傷風菌純粋培養法」に成功した北里柴三郎。その翌年には破傷風菌抗毒素まで発見し、国内だけでなく海外まで驚かせました。さらに、血清中に抗体を生み出すため、動物に少しずつ菌体を注射する「血清療法」という画期的な手法までをも開発しています。

そしてドイツから帰国後、1894年には黒死病とも呼ばれて恐れられた感染症・ペストの病原菌であるペスト菌を発見するという偉業を達成。医学界ではその名を知らない者はいないほど、現代にも通じる様々な功績を残しました。

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北里柴三郎が説いた予防医学の重要性

「近代日本医学の父」と称される北里柴三郎。その精神は、彼が1914年に設立した北里研究所に脈々と受け継がれています。同研究所には、黄熱病の研究で知られる野口英世も研究員として勤務しており、彼がアメリカに留学した際、北里柴三郎は現地の知人に紹介状を書いています。

「医の基本は予防にある」との信念を胸に、東京医学校(現東京大学医学部)へ進んだ北里柴三郎は、さらなる学識を深めていきました。同校在学中に記した「医道論」という演説原稿には「人民に摂生保健の方法を教え体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐこと」と記されており、予防医学がどれだけ重要であるかを説いています。

日本近代医学の黎明期ともいえる明治から大正時代にかけて、いち早く予防医学の重要さに着目し、その礎を築き上げた北里柴三郎。ドイツでは重症化すると死に至ることもある感染症・ジフテリアの治療に血清療法を応用する画期的な方法を論文で発表し、ノーベル生理学・医学賞の記念すべき第一回受賞者の候補に挙げられました。

世界的な評価を受けたこの論文により、北里柴三郎は海外の様々な大学、研究所から研究の場を提供すると招きを受けます。しかし、国費で留学していた彼は、未発達な日本の医療体制を整え、国民を伝染病から救うことが自身の使命であるとすべての誘いを断り、帰国の途につきます。

ドイツでの研究成果を発揮すべく帰国した北里柴三郎でしたが、留学できるよう取り計らってくれた緒方正規と、脚気の原因について帰国前に意見が対立したことにより、受け入れ先がなくなってしまうという苦境に立たされます。この時、私費を投じて伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)を設立して北里柴三郎を所長に据え、国内随一の才能が埋もれるのを食い止めたのが福沢諭吉でした。

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北里柴三郎はこの恩義に報いるため、福沢諭吉の逝去後に慶應義塾大学医学部を創設。自ら育てた教え子の中で特に優秀な研究者を教授陣に揃え、医学部長および付属病院長のポストに就いた自身は、無給で惜しみなく労力を発揮しています。

1921年、今では国内最大手の医療機器メーカーとして知られるテルモの設立発起人となり、1923年には日本医師会を創設するなど、日本の医学界に多大な貢献をした北里柴三郎。彼が生涯忘れることのなかった「病気を未然に防ぐことが医者の使命」という予防医学への思いは、今もなお受け継がれています。彼が遺した数々の功績により、私たちの健康が保たれているのですね。

北里柴三郎の名言には正義感溢れるものが多数

北里柴三郎がこれまでに残してきた名言には、人柄を表すような正義感・真面目さが光るものが多数みられます。そんな彼が東京医学校で学び、「医道論」を書いた頃の言葉に、次のようなものがあります。

「研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ」

また、ドイツで6年間師事したコッホと別れて帰国する際、自身の学者としての決意をこう語っています。

「細菌学者は、国民にとっての命の杖とならねばならない」

細菌学を学ぶことは命の杖になると、その意義を説いたコッホの教えを受け、日本を救う細菌学者になることを恩師に誓う強い意志が感じられます。

1931年6月13日未明、脳溢血で78年の生涯を終えた北里柴三郎。教え子たちには「カミナリおやじ」を意味するドイツ語「der Donner」から「ドンネル先生」と呼ばれ、慕われていたといいます。日本のために生涯を医療の発展に尽くした彼の功績なしに、今日の医学の進展は語れません。

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