倉本聡の「富良野塾」とはそもそも何なのか?出身者とその後の活躍は?

倉本聡の富良野塾の場所は?出身者たちの現在は?

倉本聡、北海道富良野に「富良野塾」開設!次代の俳優・脚本家育成を目的に

倉本聡は、代表作「前略おふくろ様」、「北の国から」などで知られる脚本家・劇作家・演出家です。1935年1月1日生まれの80歳で、東京府(現・東京都)出身です。本名は、山谷馨(やまや・かおる)といいますが、ニッポン放送で、ディレクター・プロデューサーとして勤務する一方、ペンネーム「倉本聰」で脚本家としても活動を開始しました。

フリーの脚本家に転身後、ヒット作、NHK大河ドラマ「勝海舟」制作に関わりますが、内部衝突の末に降板してしまいます。その後は、北海道に住居を移し、「北の国から」など、北海道が舞台となる数々の名作ドラマを世に送り出してきた倉本聰。そもそも倉本聡が1984年に、私財を投じて開設したのが「富良野塾」で、次代を担う若手の俳優・脚本家の養成を目的とした私塾。

「富良野塾」の名前の通り、場所は、富良野市布礼別にあります。塾生は受講料無料ですが、2年間の共同生活の中で、地元の農協や農家などから依頼される農作業や炭焼きなどに従事して生活費を自ら稼ぎつつ、冬季の集中講義などの他、ふらの演劇工場で行われる演劇公演に向けた稽古を行う、というのが富良野塾の活動スタイルです。

年に1回、電気・水道・ガスなど現代文明に頼らない原始生活を体験する「原始の日」を設けるなどのユニークな養成術でも知られています。唯一無二だった「富良野塾」ですが、倉本聡の体力の限界を理由として、2010年4月4日、25期卒業生を送り出して26年の歴史に幕を閉じました。

倉本聡、「富良野塾」出身者は現在脚本家や俳優が!閉塾の真相は、安直なドラマ作りの風潮に失望?

倉本聰の「富良野塾」は、26年間の活動期間で、卒業生は380名を数えています。塾の出身者にはどんな面々がならんでいるのでしょうか?顔ぶれとして、現在脚本家として活躍するのは、友澤晃一、石井信之(ともに第1期)、吉田紀子(第2期)、田子明弘(第3期)、久松真一(第5期)。また、俳優では、加藤久雅(第4期)、二階堂智(第6期)らが名を連ねます。倉本聰が閉塾に至ったのは、一説には、入塾生のレベルが年々低くなり、カルチャーセンターに入るような感覚で来ているということを実感させられたことが原因だとか。

また、最近のテレビドラマの風潮にも失望したと言われています。脚本をじっくりと練り、それに合わせてキャスティングしていくのが倉本聡の志向するドラマ作りです。しかし、最近のドラマは、まずキャスティングありきのように思われます。スポンサーの機嫌と顔色をうかがいながらの安直なテレビドラマ作りのスタイルが、横行することが我慢ならなかったのでしょう。

「富良野塾」を開設した50歳台は、気力も志もみなぎっていた倉本聰。年齢を重ねて、精神的な疲労が重なったことも手伝い、閉塾という結論に至ったというのが真相でしょう。なお、従来の活動は、現在、富良野GROUPと名を変えて継承されています。

倉本聡の不朽名作ドラマ「北の国から」あらすじ感想キャスト!

倉本聡、「北の国から」最終回視聴率は20%突破!スペシャル版が21年で計8回制作!

倉本聡の代表作として、あの不朽の名作ドラマ「北の国から」は欠かせません。大自然の中で暮らす一家の姿を描き、大きな評判を呼びました。舞台の着想は、富良野に移住した倉本聡が、麓郷で林業を営んでいた人物と出会ったことがその始まりとされています。しかし、アメリカのテレビドラマシリーズ「大草原の小さな家」もヒントだとも言われています。

主題歌の作曲・スキャットは、さだまさし。最初の放送は、1981年10月9日から1982年3月26日まで全24回で、制作にあたり、異例の1年2カ月間に及ぶ長期ロケを敢行しました。スタート当初、一時は1桁台の視聴率と苦戦したものの、次第に評判を呼び始め、ついには最終回に視聴率20%を突破し、平均視聴率は14.8%を記録します。視聴者からも、1万通を超える投書が寄せられ、最終回放送日には各新聞朝刊にお礼広告が出されるほどの人気ぶりでした。

圧倒的な好評に支えられ、ドラマ終了後も21年間にわたり、スペシャル版が計8回も放送されています。しかし、制作スタッフの高齢化や、長期ロケによる高額な制作費など、続編の制作が困難になったことから、「2002遺言」をもってシリーズの歴史にピリオドが打たれました。

倉本聡、黒板五郎役はあの大物が候補だった!あらすじ感想キャスト!

「北の国から」のあらすじは、北海道の雄大な景色をバックに、東京から帰郷した黒板五郎が、大自然に囲まれながら、息子の純、娘の蛍との親子3人暮らしの中で、失われた親子の絆を取り戻して行くというもの。キャストは、黒板五郎役に田中邦衛、純には吉岡秀隆、蛍役に中嶋朋子。黒板五郎役は当初、田中邦衛以外の候補者として、菅原文太や仲代達矢、北島三郎、緒形拳、藤竜也といった大物がキャスティングされていました。

しかし、情けなさそうだけど不器用で温かい父親像を醸し出せる役者という観点から、最終的に田中邦衛に決定したのだそうです。たしかに「子供がまだ食ってる途中でしょうが!」という名セリフは、田中邦衛ならではでした。ドラマ「北の国から」が高い評価を勝ち得た理由として、まず倉本聡の脚本のうまさが挙げられます。構成が非常にしっかりしており、ドラマの展開にも破綻がありません。

セリフまわしも非常に巧みで、セリフとセリフの間の沈黙が、絶妙な雰囲気を醸し出していました。また、「北の国から」は、子役の成長をリアルタイムで追う成長日記としての役割も果たしています。子供が一人の大人へと成長して行く過程を、視聴者が一緒に見届ける結果にもなっていたのです。ドラマ撮影時、まだ幼かった純や蛍が、のちのスペシャル版で成長したことに感慨を覚えるのは、視聴者共通の感覚でしょう。

そして、BGMで流れる、さだまさしの音楽が欠かせません。あの音楽が流れるだけで、「北の国から」のさまざまな名シーンが浮かんでくるのですから不思議なものです。

倉本聡氏が舞台演出引退!80歳で「年齢的に難しい」

倉本聡が、年齢を理由として、舞台演出から退く意向を示しています。現在80歳の倉本聡は、富良野GROUP公演「屋根」の演出を手掛けていますが、スポーツ紙の取材に対し「年齢的に舞台は難しくなる。『屋根』は遺作のつもりで頑張ろうと思う」と語っています。

倉本聰は、ドラマ「北の国から」「前略おふくろ様」や、故・高倉健主演の映画「駅-STATION」などの脚本を手掛けたことでも有名です。1984年に俳優や脚本家を養成する「富良野塾」を開き、舞台活動にも飽くなき情熱を示してきましたが、2010年に自身の体力の限界を理由として「富良野塾」も閉塾しました。「80歳を超え、体力的に衰えてきた。再来年にやる予定の舞台『走る』を最後に、舞台はもうできないんじゃないかと思っている」と、そう遠くない時期に舞台演出から身を引く意向のようです。

ドラマや映画の脚本については、「それは分からない」とまだ完全には決めかねている様子でしたが、「でも僕も年だからね」と、やはり引退を示唆するかのようなコメントを残しています。そんな倉本聡は、今後の日本のあり方を危惧してもいます。

日本を、ブレーキとバックギアを付け忘れたスーパーカーに例え、そんな車には怖くて乗れないのに誰も何も言わないのは恐ろしいと警鐘を鳴らします。国を挙げて、今に満足せず、前年と比べて数字が伸びていないとダメという風潮に対して、むしろ前に戻さないと無理だと提唱してるのです。この苦言に耳を貸す日本人がいったいどれくらいいるのか、非常に興味深いところですね。

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