遠藤憲一「ヤメゴク」「Dr.倫太郎」と人気ドラマから引く手あまた!そして新・仕事人!!

遠藤憲一、強面、ハスキーボイスがやっと掴んだ役者名利

遠藤憲一、「ヤメゴク」「Dr.倫太郎」と掛け持ち

強面とハスキーボイスでのし上った遠藤憲一は、春の新ドラマ、TBS「ヤメゴク」、日本テレビ「Dr.倫太郎」に相次いで出演。またこの秋放映予定のテレビ朝日「新仕事人2015」にも、かつては悪人役だった彼が、今回は仕事人役で颯爽と出演することになりました。
今、絶好調のエンケン、遠藤憲一の素顔とは?

遠藤憲一、ありきたりでない役者人生

遠藤憲一、1963年生まれの53歳。彼の俳優歴は長く、18歳から現在まで、もう35年以上のキャリアになります。彼が俳優になるきっかけは、劇団員募集のチラシを目にしてなんて、いかにもありきたりな理由と同様に、長い不遇時代がありました。彼の小さい頃の写真を
見ると、決して今のような強面ではなく、結構アイドル系の2枚目だったようですが、あまり考えもせず入った工業高校が大失敗。周りはまさにリアル「クローズド」の世界で、ツッパリ遊び呆けて高校を中退。それからは様々な仕事については途中で逃げ出す「逃げ癖」がついてしまう始末。そんなときに、ふと目についたのが劇団員募集のチラシだったそうです。このあたりまではよくある役者の苦労話ですが、彼がすごかったのは、劇団員になってしばらくしてから、俳優の仲代達也が主宰していた「無名塾」に応募し、数多くの演劇志望のエリートたちを差し置いて「無名塾」に合格したことです。さらにすごかったのは、本格的な演劇を目指すまわりに圧倒され、わずか10日で無名塾を逃げ出してしまったとことです。もしそのまま彼が無名塾にいたら、彼の役者人生は、全く別のものになっていたことでしょう。
それでも、どういうわけか彼は役者を止めず、新たに劇団フジ・東京宝映(現宝映テレビプロダクション)に所属します。このプロダクションは今でもある大手のプロダクションですが、どちらかと言えば子役やエキストラを供給するプロダクションで、以後彼は29歳まで、ひたすらエキストラや、チンピラ、組員A程度の役をほそぼそと続けることになります。もう自分に逃げる場所はないという、悲愴な覚悟だけを支えに。

遠藤憲一、強面俳優から主演俳優への道

遠藤憲一、映画ドラマの出演本数なんと700本以上

そんな全く無名時代に、彼は結婚します。そして、この奥さんとともに個人事務所を起こします。彼女が福の神であったのか、マネジメント能力が高かったのか、来る仕事は拒まず彼は働き続け、その評価を高めていきます。80年代終わりから今日まで、映像の1ジャンルを築いたVシネマが、彼のキャラクターとマッチしたのか、その強面キャラで、テレビドラマや本編にと実績を重ねていきます。ちなみにこの強面は父親から引き継いだDNAのようです。遠藤憲一の公式ツイッターで公開された父子の写真が「そっくりだ!」と大反響。そんな遠藤憲一、なんとこれまでの出演本数は700本を下らないと言われています。また、自らが主演した「湯煙スナイパー」でも高い評価を得て、この1、2シーズン、テレビドラマの話題作にはかならず出演を果たし、その存在感をますますアピールしています。

遠藤憲一は、CMナレーター界の帝王

彼はいきなり俳優でブレークしたわけではありません。彼が出始めの頃の、北野武「その男凶暴につき」で、彼の独特のハスキーボイスに目をつけたCMディレクターが、CMのナレーションに彼を起用。たちまちCM業界では知る人ぞ知る、ナレ―ションの帝王として君臨することになります。映画のトレーラーやTV番組のナレーションも含め、これもまた、現在までに500本以上という実績は、人気ナレーターをはるかにしのぐ本数です。そして最近では、バラエティなどでその人となりが知られてくると、強面のルックスとは裏腹に、極めてひょうきんな性格も見いだされ、「キャンディクラッシュ」や「ピザーラ」、「ネット印刷」など、TVCMでのコミカルな演技で、新たな境地を開いています。
もし彼が無名塾にいたままなら、彼は、今ほど成功しなかったかもしれません。遠藤憲一は、その強面とハスキーボイスを賜物として、与えられた役をあれこれ考えず愚直にこなし、演技の幅を広げてからも決して偉ぶることなく、役を演じることを楽しむ、ホンモノの役者といえるのではないでしょうか。

遠藤憲一の出身地、東京都品川区ってどんなとこ

遠藤憲一も欲しい、東京都品川区の品川ナンバー

新幹線の品川駅ができてからは、加速度的に再開発が進む品川大崎のエリア。品川は今も昔も東京の主要ターミナルであるとともに、町としてのブランドが非常に高い町といえます。例えば車の品川ナンバーなどもその1つ。品川ナンバーは、千代田区・中央区・港区・品川区・目黒区・大田区・世田谷区・渋谷区の居住者しか手に入れることができません。東京という町に暮らすほとんどの人々が地方出身者であり、いかに自分が人より東京人であるかを誇示する以外、ナンバプレートなど何の意味もないように思いますが、都会暮らしもいろいろ気苦労が多いですね。

遠藤憲一が育った品川は、江戸の昔も大賑わい

品川には、新しいランドマークがどんどん増えていますが、江戸時代の品川にもまた、江戸っ子たちが熱狂してお参りしたお寺がありました。江戸時代の品川宿は、東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並び、江戸四宿の1つして、今以上の賑わいであったそうですが、この品川で、判官びいきの江戸っ子たちに圧倒的人気を誇ったのが、高輪の泉岳寺です。元禄14年、赤穂浪士が吉良邸討ち入り後、主君浅野長矩公の墓前に吉良上野介の御印を供えたお寺で、今では語られることが少なくなった赤穂浪士の物語ですが、江戸という大都会を、そしてその時代を動かす社会現象にもなった赤穂浪士の物語を詳しく知りたい方は、泉岳寺境内にある赤穂義士記念館をぜひお訪ねください。

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