市川崑監督を金田一耕助だけで語るべからず!「マジックアワー」での映画愛に三谷幸喜は…?

市川崑が残した映画作品を紹介!様々な賞を受賞していた!


市川崑のプロフィール
◆生年月日:1915年11月20日
◆死没:2008年2月13日
◆出身:三重県
◆デビュー作:花ひらく(1948年)

市川崑は「犬神家の一族」「細雪」など数々の映画作品を手掛けた監督!「マジックアワー」に出演

市川崑(いちかわこん)は1930年代から活躍していた映画監督です。手掛けた有名作品は数多く、1977年8月27日公開の「獄門島」、1959年11月3日公開の「野火」などの映画は、高い評価を獲得しています。

市川崑の代表作といえば、金田一耕助を演じた石坂浩二とのコンビで1976年10月16日に公開され、興行収入17億円を記録した空前のヒット作「犬神家の一族」をはじめとする一連の角川映画でしょう。

ミステリー作品で高い評価を得る一方で、岸惠子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子とトップ女優が四姉妹を演じた1983年5月公開の映画「細雪」は「アジア太平洋映画祭」で作品賞、監督賞を受賞。さらに、山口百恵の引退記念映画として1980年12月に公開された「古都」では脚本も手掛け、文芸作品を原作とする映画でも素晴らしい作品を遺しています。

現在、映像に関わっている人物たちにも大きな影響を与えてきました。1995年10月から放送を開始したアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の監督、庵野秀明は特徴的なL字の文字組みは市川崑が用いた手法のオマージュであったことを公表しています。

そんな映画界の巨匠・市川崑は2008年2月13日、肺炎により92歳でその生涯に幕を閉じました。同年6月に公開された映画「ザ・マジックアワー」には自身がメガホンをとった「黒い十人の女」のパロディ「黒い101人の女」の監督役で出演。自身の映画を一緒に作ってきたスタッフを撮影シーンのエキストラとして出演させるなど全面的に協力し、これが遺作となりました。

「ザ・マジックアワー」の脚本・監督を手掛けた三谷幸喜は最後まで面白い作品を世に送り出すことに力を注いだ稀代の名監督・市川崑の映画愛に敬意を表し、同作のエンドロールに「市川崑監督の思い出に捧ぐ」と表記しています。

市川崑は「野火」「東京オリンピック」などで数多くの賞を受賞!

市川崑は、ミャンマーで敗戦を迎えた日本兵を描いた1956年1月21日公開の映画「ビルマの竪琴」で「エディンバラ国際映画祭グランプリ」「ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞」など数々の賞を受賞し、「アカデミー賞外国語映画賞」にもノミネートされました。

また、戦争末期に極限の状況に追い込まれた人間の心理を描いた1959年11月3日公開の「野火」で「ロカルノ国際映画祭グランプリ」や「バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞」を、さらに1965年3月20日公開のドキュメンタリー映画「東京オリンピック」で「英国アカデミー賞長編記録映画賞」「国連平和賞」などを受賞。後に「芸術作品なのか記録映画か」という論争に発展した同作は映画館以外に学校や公民館でも上映されたことにより、日本の映画史上最多数ともいわれる2350万人もの観客動員数を記録しています。

他にも複数の賞を受賞した市川崑は長年にわたる映画界への功績が讃えられ、2000年に「ベルリン国際映画祭特別功労賞」、2001年に「モントリオール世界映画祭功労賞」を受賞しました。

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市川崑の生い立ちや家族、映画界に進んだきっかけは?人間模様と素顔

市川崑は画家志望だった!映画界に進んだきっかけは?嫁や息子は誰?

市川崑は1915年11月20日に三重県宇治山田市に生まれるも、4歳の時に父親が急死したことで伯母の住む大阪市西区九条に移り住みます。しかし、脊椎カリエスを患ったことで長野県で療養し、その後広島市へ。当初は画家を目指していましたが、資金の問題に直面し、1932年1月14日公開の伊丹万作監督映画「國士無双」に衝撃を受けたことで映画界に進むことにします。

しばらくはアニメーターとして活躍した後、実写映画の助監督として伊丹万作、阿部豊のもとで経験を積み、1948年の「花ひらく」で実写監督デビューを果たしました。同年に脚本家の和田夏十(わだなっと)こと市川由美子と結婚。東宝で通訳の仕事をしていた由美子夫人は脚本の校正を担当した際に市川崑と出会いました。これが縁で脚本家としての才能を見出され、市川崑が手掛けた多くの作品において脚本を担当。1983年2月に乳がんで世を去るまで、公私におけるパートナーとして名匠を支えました。

市川崑の息子・市川建美は、株式会社崑プロの代表取締役を務めています。2016年1月には「市川崑映画祭 光と影の仕草」開催にあたってのインタビューのなかで「家庭では子煩悩で巨人ファンという普通の父親だった」と市川崑の子供である彼しか知り得ない名監督の在りし日の姿を語りました。

尚、「世界の中心で、愛をさけぶ」「昼顔」「コンフィデンスマンJP」など東宝の大ヒット作品を数々手掛け、2017年6月に東宝の会長に就任した市川南が市川崑の息子ではないかという声もあるようですが、彼の父は「犬神家の一族」のプロデューサー・市川喜一であり、市川崑との血縁関係はありません。また、市川崑には舞子という娘もいますが、こちらは何の情報もないことから芸能関係の仕事はしていないものと思われます。

市川崑の周りの人間模様!素顔はタバコ好きの偏食家だった?

市川崑は長年映像業界の第一線で走り続けてきた存在であり、多くの著名人が彼の影響を受けたことを公言しています。市川崑の師匠の1人であった伊丹万作の息子・伊丹十三は映画監督を務めるようになってから「師匠は市川崑さん」と語り、伊丹十三の息子(伊丹万作の孫)である池内万作は、2006年12月公開のセルフリメイク版「犬神家の一族」に俳優として出演していました。

小説家の三島由紀夫は「最も多く観るのは市川崑の作品」との文章を残しています。映画監督の岩井俊二は「犬神家の一族」を観て映像業界に足を踏み入れたといい、2006年12月公開の市川崑を主演にしたドキュメンタリー映画「市川崑物語」の監督を務めました。

また、長い付き合いのあるキャストは監督としての偉大さを語るとともに、その素顔についても明かしています。女優の岸恵子は最も影響を受けた人物を問われ「恩人は市川崑さん。本当にすごい人だった」と振り返り、実はかなりの甘党ですき焼きにも砂糖を山ほど入れるため一緒には食べられなかったという話を披露していました。

俳優の石坂浩二は「犬神家の一族」以降、多くの市川崑作品に出演し、友人でもあった仲。石坂浩二は2008年5月の「スタジオパークからこんにちは」出演時に、「肉しか食べない」と言われるほどの偏食家であった市川崑が実際に「この年になって食生活は変えられない」と語りながら牛丼を食べていたエピソードを明かしていました。

タバコ好きで1日100本吸っていたという市川崑。1本ない前歯の間にはさめたくわえタバコがトレードマークでしたが、吉永小百合のアドバイスによって「あと1、2本撮りたいから」と晩年はやめていたといいます。

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市川崑監督作品は色あせない!公開50年後に再上映!映画だけでなくCMなどにも携わっていた!?

市川崑の「第50回全国高校野球選手権大会 青春」が約50年後の2020年に再上映!

市川崑は2008年2月13日に肺炎のため92歳でこの世を去りましたが、市川崑の作品は今でも多くのファンに愛されています。1968年9月21日に公開となった映画「第50回全国高校野球選手権大会 青春」が、50年以上の時を経て2020年8月14日から再上映されました。

新型コロナウイルス感染拡大の影響で2020年の全国高校野球選手権大会が中止となったことを受けて「今年は映画館で甲子園を。」をテーマに第100回甲子園を描いた2020年8月21日公開の映画「甲子園:フィールド・オブ・ドリームス」とタイミングを合わせて上映され、多くのファンが劇場に足を運びました。

市川崑は映画だけじゃなかった!テレビドラマやCMでも有名に!

市川崑は映画監督として世界的に知られていますが、テレビが家庭に浸透し始めた頃から挑戦的な姿勢で関わっていました。1965年から1966年まで放送されていた「源氏物語」や、1972年1月から1973年3月まで放送された「木枯し紋次郎」などテレビドラマも手掛けています。

また、1967年7月20日公開の「トッポ・ジージョのボタン戦争」といった人形劇も手掛けるなど、映画に限らずジャンルを問わない多彩な才能の持ち主でもありました。

さらに、1966年の「ホワイトライオン」、1979年の「味の素 ハイ・ミー」、1983年の「日本中央競馬会 少年と馬篇」など、多くのCMにも携わっていて、その演出能力で多くの視聴者の心をつかみました。

娯楽性の高い映画だけでなく、ドキュメンタリーや人形劇、CMなど幅広いジャンルで才能を発揮した市川崑。その作品はこれからも多くのファンに愛され続けていきそうですね。

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