一ノ瀬メイ、リオパラリンピックの挑戦!ハーフ水泳選手の家族とは?

一ノ瀬メイ、リオパラリンピックの挑戦!ハーフ水泳選手の家族とは?

一ノ瀬メイが夢の舞台リオパラリンピックへ!障害者差別を乗り越えた19歳水泳選手の挑戦!

一ノ瀬メイは、競泳日本代表として挑んだ初の大舞台リオパラリンピックで、世界中に大きな感動をもたらしました。一ノ瀬メイは、先天性右前腕欠損症のため、生まれた時から右肘から先がありません。

1997年3月17日、京都市に生まれた一ノ瀬メイは、自宅付近に障害者スポーツセンターがあったため、わずか1歳半で水泳を始めました。その後、パラリンピック出場の夢を胸に、9歳で有名水泳クラブの門を叩くも、障害者であることを理由に入門を断られています。

その悔しさをバネに水泳に打ち込んだことで、周囲のからかいからも自分を守ることができたという一ノ瀬メイ。リオパラリンピックへの挑戦には、”障害者競技を知ってもらいたい”という強い思いが込められていたのです。得意の200m個人メドレーをはじめとする8種目出場を果たすも、決勝進出は叶いませんでしたが、一ノ瀬メイの19歳の勇姿には、多くの人々が感銘を受けました。

一ノ瀬メイはハーフ美女!父親の母国・イギリスへの水泳留学で意識変革

一ノ瀬メイは、13歳の時に、史上最年少でアジアパラ競技大会に出場し、50m自由形の銀メダリストになっています。パラスイマーとして期待が高まると同時に、どこか女優・水原希子を思わせる容姿にも、”かわいい”と注目が集まるようになりました。

一ノ瀬メイは、イギリス人の父親と、日本人の母親を持つハーフです。一ノ瀬メイにとって、右腕の欠損は、ハーフであることと同様に、自分の特性に過ぎませんでした、しかし、近年の日本では、ハーフという個性は受け入れられても、障害を個性と認識してもらえないのが現状です。

一ノ瀬メイは、9歳で水泳クラブへの入門が叶わなかったことで、人生で初めて、自身の”障害”を認識することとなりました。競泳生活が絶たれようとしていた一ノ瀬メイでしたが、家族と共に父親の故郷であるイギリスに渡り、1年間、現地の水泳教室に通います。そこでは、障害者も健常者も関係なく同じ練習が行われており、”これを日本にも広めたい”と思うようになったそうです。

一ノ瀬メイは近畿大学在学中!英語スピーチコンテストの内容とは?

一ノ瀬メイは中学、高校時代の努力が実り水泳の名門・近畿大学へ!

一ノ瀬メイの努力と成長は、パラリンピック競泳日本代表監督・猪飼聡の目に留まり、イギリスからの帰国後は、本格的にパラリンピックを目指すようになりました。中学時代のアジアパラ競技大会を経て、京都市立紫野高校3年次には、韓国仁川アジア競技大会の200m個人メドレーと100m平泳ぎで銀メダルを、50m自由形と100m背泳ぎで銅メダルを獲得しています。

その後、一ノ瀬メイが進学した近畿大学は、ロンドンオリンピックで銅メダルを獲得した寺川綾をはじめ、多くのオリンピック選手を輩出している水泳の超名門大学です。障害を持つ一ノ瀬メイが、その門をくぐるだけでも大変なことですが、高校時代の2倍の練習量をこなし、入学したばかりの2015年7月に行われた世界選手権大会では、200m個人メドレーで決勝進出。パラの世界ランキングを20位から13位にまで縮めています。

一ノ瀬メイは英語スピーチコンテストで全国優勝!”障害の社会モデル”を訴える

一ノ瀬メイは、高校3年生の時、「全国高等学校英語スピーチコンテスト」で優勝し、文部科学大臣賞・文部科学大臣杯を受賞しています。イギリス人の父親をもつ一ノ瀬メイの家庭でのコミュニケーションは英語が主流で、自身にも留学経験があることから、一ノ瀬メイが英語に堪能なことは明らかです。

そんな一ノ瀬メイが英語で訴えたのは、”障害の社会モデル”。自身の右腕の欠損部を指差し、「私の右腕は短いです」と切り出したスピーチは、約5分半に及び、障害を理由にクラブへの入門を断られた経験をもとに、「社会が障害を作るなら、社会はそれをなくすことができる」と結ばれています。

実は、一ノ瀬メイは、高校1年、2年の時にも、同様の内容でコンテストに出場しています。しかし、審査員の高い評価を受けながら、”内容が個人的”との理由で全国大会には進むことはできませんでした。一ノ瀬メイの英語の実力もさることながら、それに負けることなく、3年間を通して訴え続けた姿勢にこそ、優勝の価値を見出せそうです。

一ノ瀬メイは東京パラリンピックでメダル獲得を狙う!”障害ではなく個性”が当たり前の世の中を目指して

一ノ瀬メイは、メジャーリーガー・イチローと出演するトヨタ自動車のCMが話題となり、リオパラリンピックでは特に注目の的となりました。とりわけ日本では、オリンピックに比べて、パラリンピックは、ハンディキャップを持つ選手の競技という認識があり、人々の興味が薄いのが現状です。

しかし、体の一部が欠けていては、まっすぐ進むことすら難しい競泳で、自らのバランスを探りながら、自由形・平泳ぎ・バタフライ・背泳ぎとオールマイティな泳ぎを習得した一ノ瀬メイの能力は驚異的。一ノ瀬メイが言うように、右腕の欠損は個性であり、さまざまな個性を生かした分野の1つとしてパラの世界があると考えるべきなのかもしれません。

一ノ瀬メイにとって、パラリンピックは、幼い頃から目指してきた夢の舞台でした。5つの日本記録を樹立して挑んだリオパラリンピックでは、極度の緊張のために本領を発揮することはできませんでしたが、4年後の東京大会では、メダル獲得を目指します。

そんな一ノ瀬メイらの活躍は、パラ競技の周知を促進するとともに、”障害”と片付けられがちな個性を持つ人々の光となるはずです。開催国の日本には、2020年の東京オリンピックと同時開催されるパラリンピックで、その意義を世界に先駆けて発信する責任があります。

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