池山隆寛の現役時代の成績や年俸、守備力もスゴかった!!ブンブン丸の引退試合は?!
池山隆寛の現役時代は5年連続で30ホーマーの成績!ブンブン丸は年棒も守備力も凄かった!
ヤクルトスワローズ一筋で、主力打者として活躍した元プロ野球選手の池山隆寛(いけやまたかひろ)。三振を恐れず、常にフルスイングする姿からついたあだ名は「ブンブン丸」です。守備力が優先されるショートを守りながら、5年連続で30ホーマーをクリアした強打者でもありました。
まさに1990年代のヤクルトを牽引した主力選手として、今でも根強いファンの多い池山隆寛は、1983年のドラフト会議でヤクルトの2位指名を受けてプロ入り。入団2年目から代打や守備固めとして1軍で出場し、1987年からはショートのレギュラーに定着します。1988年に長打力が開花した池山隆寛は、5年連続で30ホーマーをクリア。1990年には、打率3割3厘、31本塁打の成績を残し、ショートとして史上初の3割30本を達成しました。
強打に目がいきがちな池山隆寛ですが、高い身体能力と強靭なバネを生かしたショートの守備力でも高評価を獲得しています。もともとドラフト指名されたのは、守備面が高く評価されたことも理由の1つで、守備範囲が非常に広い上に強肩で、打球への反応も秀でており、ダイナミックな守備でファンを魅了しました。
1991年には、ショートとしてのシーズン守備率9割9分4厘の日本新記録を樹立。守備範囲が広い中で、エラーはわずか4個という驚きの守備力を発揮しています。とはいえ、同時期の各球団のショートには、川相昌弘(巨人)や、野村謙二郎(広島)など凄い顔ぶれが揃っていたため、池山隆寛の高度な守備力が目立たなかった面も否めません。
晩年は、アキレス腱や膝の痛みの悪化に苦しみ、2002年限りで現役引退。通算成績は、19年間で1784試合に出場し、5811打数1521安打304本塁打898打点、打率2割6分2厘です。池山隆寛の最高年俸は1億5000万円と推定されていますが、今見ると少なすぎるように感じられます。これだけ攻守に秀でた選手ですから、もっと高額な年俸をもらう価値は十分ありました。仮に今プレーしていたら、少なくとも2億円は下らない年俸を得ていたことでしょう。
池山隆寛は引退試合でも渾身のフルスイング!
池山隆寛の引退試合は、2002年10月17日の広島東洋カープ戦。スタンドは、「ブンブン丸」の最後の雄姿を一目見ようとする満員の大観衆で埋め尽くされました。「3番・ショート」で先発出場した池山隆寛は、8回に左中間へ二塁打を放ち5打数1安打とし、通算1521本目のヒットを記録。試合途中からはファーストに回り、守備でもファインプレーを披露し、詰めかけたファンの期待にしっかりと応えました。
最後の打席が回ってきたのは10回裏です。1-1のタイスコアで迎えた10回表に広島が1点勝ち越しますが、ヤクルトもおとなしく引き下がってはいません。セーフティバントで出たランナーをバントで送り、2アウトながらランナー二塁。ホームランが出れば、逆転サヨナラというドラマの期待が高まります。
ここで、打順が池山隆寛に回ってきました。ファンの熱い「池山コール」の中で、速球を強振した池山隆寛は、2球連続して空振りし、続く3球目の速球にも渾身のフルスイングで三振してゲームセット。三振に倒れた時には、すでに右膝が曲がらない状態で、試合終了後には足を引きずりながら握手を交わすという満身創痍の状態でした。
試合後の引退セレモニーでは、「これから第二の人生の打席に入りますが、必ず戻ってきます」と引退のあいさつをした池山隆寛。ファンの熱い声援の中、ブンブン丸の引退試合は幕を閉じました。
池山隆寛は野村克也から厳しい指導を受けていた!指導南野陽子と熱愛の過去も?
池山隆寛が野村克也から厳しい指導を受けていたのは高い評価の裏返し?
並外れた先天的な能力のまま奔放にプレーしていた池山隆寛は、当時ヤクルトの監督だった野村克也に厳しく指導されていたと伝えられています。実際に野村克也は、「池山隆寛=何も考えずに優れた能力だけでプレーしている問題児」というイメージを抱いていたそうです。
そこで監督に就任した際に、「ブンブン丸と言われていい気になって、ワガママなプレーをするんじゃない」とフルスイングを戒めるよう説教したと振り返っています。しかしその反面、「守備力だけで1億円プレーヤーになれる選手」だと、守備面で高く評価していたとか。
つまり、野村克也の厳しい指導は、池山隆寛のへの高い評価の裏返しだったと推測できます。人間的に一皮むけて欲しいという思いがあるがゆえに、あえて厳しく接したとも言えるでしょう。後任の若松勉監督が「優勝できたのは池山のおかげです」と語っていたと聞き、野村克也は「嬉しかった」と語っています。
それは、池山隆寛がチームのために率先して働き、人間として大きな成長を遂げたという手応えを感じたからに他なりません。常に「チームに人材を遺す」と言い続けていた野村克也の指導が結実したからこそ、池山隆寛はステップアップすることができたと言えますね。
池山隆寛と南野陽子の熱愛の真相は?某プロデューサーとの不倫のカモフラージュ?
公私ともに奔放なところがあった池山隆寛は、数多くの女性との交際も噂になりました。その中でも有名なのは、南野陽子との熱愛です。熱愛事件が発覚したのは、車内でのツーショットをスクープされたことがきっかけでしたが、南野陽子側は「グループ交際」とコメントしています。その後も交際が発展した様子はなかったばかりか、南野陽子との熱愛報道には裏があったという噂も。
それによると、南野陽子は、有名音楽プロデューサーと不倫関係にあったことをカモフラージュするために、池山隆寛との熱愛騒動を仕立てたそうです。当時の池山隆寛と言えば、かなりのモテ男。ネームバリューとインパクトという意味では、カモフラージュに最適という見方もあながち外れていなかったかもしれませんね。
池山隆寛が星野仙一へ哀悼メッセージ!楽天監督就任を目論む?
現在は、楽天ゴールデンイーグルスで2軍監督を務めている池山隆寛が、球団副会長の職にあった星野仙一の死去に際し哀悼の意を捧げています。ブログを更新した池山隆寛は、星野仙一の訃報に触れて、「星野さんがいたから、今の自分があると言っても過言ではない」と振り返りました。
現役時代はヤクルトの中心選手として活躍し、引退後は古巣のヤクルトで2軍野手総合コーチを務めていた池山隆寛。ヤクルト球団も、1軍と2軍それぞれでバッティングコーチを歴任させ、将来の監督候補とみなして2軍監督を経験させる予定だったと伝えられています。
しかし、意外にもその話を蹴り、池山隆寛は、星野仙一からの誘いに乗る形で楽天コーチに就任しました。こうして、野村克也が楽天監督だった時代にもコーチを務め、後進育成に手腕を発揮していた池山隆寛は、右の長距離打者を育成できる指導者を探していたチーム事情により、7年ぶりに楽天へ復帰することに。
闘将・星野仙一と面談した際には、「星野さんのつけていた背番号77を僕につけさせてください」と背番号を譲り受けたというエピソードがあります。それに対し、生まれ育ったヤクルトでの良い話を蹴ってまで楽天を選んだのは、将来の監督就任を計算した上での決断で、星野仙一の心をつかむために背番号を譲り受けたと見る向きがあるのも事実です。
その見方が当たっているかどうかはさておき、「ゆっくり休んでください。闘将の気合いは我々が受け継いで行きます」と結んだ池山隆寛。これをもって、将来の監督就任に向けての決意表明だというのはうがちすぎでしょうか。とはいえ、年齢的には監督に就任してもおかしくない世代ですから、近い将来、監督として采配を振るう池山隆寛の姿を見ることができるかも知れません。