金田正一の球速球速、成績は?名球会退会の真相とは?
金田正一の速球は球速160㎞出ていた?400勝の輝かしい成績は徹底した猛練習と食へのこだわり
プロ野球前人未到の400勝を挙げた名投手・金田正一(かねだまさいち)は、国鉄スワローズ(現・東京ヤクルト)で大エースとして君臨。その左腕から投じる快速球で三振を次々と奪い、一時代を築き上げました。デビュー間もない長嶋茂雄を4打席連続三振に打ち取るなど、破天荒な伝説に満ちた野球人生は、今も語り草となっています。
ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の監督としても、チームを日本一に導いた金田正一。名作漫画「鉄人28号」の主人公・金田正太郎の名は彼が由来とされるほどですから、時代の象徴と言うべき存在だったと言えます。
「カネやん」の愛称で親しまれた金田正一の通算成績は、944試合に登板して、400勝298敗、防御率2.34。5526と2/3回を投げ、先発569試合中365完投、82完封、39無四球試合、1808与四球に4490奪三振を記録しています。
獲得タイトルは、最多勝利と最優秀防御率を各3回、最多奪三振10回に加え、沢村賞とベストナイン各3回です。さらに、ノーヒットノーランを2回達成した他、勝利数と敗戦数、奪三振、投球回数、完投数、与四球はいずれも日本記録となっています。まさに空前絶後の大投手だった金田正一の14シーズン連続20勝をクリアしたという記録もまさにアンビリーバブル!現代野球では、20勝するだけでも並大抵ではありませんが、その大台を14年連続でクリアしてのけました。
すさまじい球威を誇る速球は歴代最高の呼び声も高く、対戦したバッターが「間違いなく球速150㎞後半か160㎞は出ていた」と口をそろえるほどの球速。その球威ゆえ、高校時代は彼の速球を捕れるキャッチャーがいなかったとか。プロで鳴らした猛者たちも、その速球の威力には手を焼くことになります。
1950年に高校を中退した金田正一は、プロ入りするやいきなり8勝。2年目からは14年連続20勝以上をクリアするなど、名実ともに球界を代表する大エースに上り詰めます。当時は弱小チームだった国鉄の中で、圧倒的な実力と傍若無人な態度で鳴らし、監督すら彼の存在には頭が上がらず、「球界の天皇」とも呼ばれたほどでした。1965年に巨人入りし、400勝を達成した金田正一は、1969年限りで20年間の現役から引退しています。
彼のキャリアの土台となったのは、強靭な体力に加えて、徹底した猛練習と、ストイックなコンディション調整、そして旺盛な食欲でした。中でも走り込みは、他の選手たちが音を上げるほどのハードさを極め、巨人入りした際には、選手たちが彼の超人的な練習量に舌を巻いたと伝えられています。自身の商売道具である左腕には細心の注意を払っていた金田正一は、絶対に左腕では子供を抱かなかったそうです。
また、食べることにもこだわり抜き、キャンプには自ら厳選した食材を持参。「プロはいいものを食べなきゃダメだ」と言い、当時のサラリーマンの月給レベルの金額を全て市場での買い物に使い、わずか3日で食べ尽くしてしまったという伝説も残っています。何もかも規格外の伝説を残した男、金田正一。その圧倒的な成績を凌駕する選手はもはや現れないでしょう。
金田正一が名球会を退会した真相とは?不信感を抱いた会員のクーデターだった?
金田正一は、名球会の立ち上げに尽力したことでも知られています。プロ野球選手で長年プレーを続け、一定の成績を達成すれば与えられる栄誉が名球会入りです。名球会の正式名称は「一般社団法人日本プロ野球名球会」で、国内外での少年野球指導など野球の普及促進や社会貢献を行っています。
入会資格は、昭和以降に生まれた選手で、投手ならば200勝、野手では2000本安打を記録すること。現在は、日米両球界でプレーした選手や250セーブを達成した投手も入会対象となるなど、資格は緩和されています。1978年2月に発足以来、彼が牛耳ってきたといってもよいほど、金田正一が影響力を誇示してきました。しかし、現在は、名球会会員名簿の中から金田正一の名前が消えています。
それは、2009年に、金田正一が名球会から退会したからで、そこには、名球会内部のクーデターがあったとか。金田正一のワンマンぶりは有名で、名球会に長年君臨していたため、誰も反論できない雰囲気だったことに加え、会計も不透明という実態に反旗が翻されたと言われています。しかし、彼自身は「退会などしていない」と、頑として退会そのものを認めていません。金田正一の言い分を借りれば、「名球会は横取りされたんだ。本当の名球会はワシがきちんと守っている」ということになります。しかし、客観的に見れば、今までのやり方が強引すぎたために見放されたように見えます。
金田正一の息子は俳優・金田賢一、娘は元タレント!弟たちもプロ野球選手だった
金田正一の息子は俳優・金田賢一、娘は元タレント!
並ぶ者のいない大選手だった金田正一の息子が俳優の金田賢一ということはご存じでしょうか?金田賢一は、天下の400勝投手が父親で、母親はあの宝塚歌劇団に所属していたというサラブレッド。同年代の中井貴一や佐藤浩市、石原良純らとともに2世タレントとしてスポットライトを浴びたことでも知られています。
1978年に映画デビュー後、ドラマ出演などで経験を積み重ねた金田賢一は、伝説の刑事ドラマ「太陽にほえろ!」のレギュラーに抜擢されるなど活躍しました。甘いマスクと長身で売れっ子でしたが、近年はめっきりと露出が減り、一説には、「重病で入院しているのではないか?」とも言われています。
また、金田正一には、息子だけでなく、娘が2人いるそうです。そのうちの1人は、洗顔フォームのCMに出演するなど、元はタレントとしても活動していました。その後は情報がないところを見ると、現在は一般人として過ごしているのかもしれません。
金田正一の弟は全員プロ野球選手だった!末弟は最多勝2回で通算128勝!
金田正一の3人の弟たちも全員プロ野球選手でした。ともに元西武で活躍した松沼博久・雅之兄弟の例でも分かるように、兄弟2人がそろってプロ野球入りすることはさほど珍しいことではありません。しかし、3人いる弟がいずれもプロ野球入りしたのは金田正一のケースのみだと思われます。
金田兄弟の場合は、長兄の金田正一がとてつもない大選手なので、なにかと比較されて肩身の狭い日々だったかもしれません。3人の弟は、金田高義(たかよし)、金田星雄(ほしお)、金田留広(とめひろ)で、いずれもポジションはピッチャーです。このうち、金田高義と金田星雄は、兄と同じ国鉄に入団しています。しかし、1軍で成績を残すことはかなわないまま現役引退しました。
金田星雄は、プロ野球選手から歌手に転向し、レコードも出したほか、映画出演も果たしているとのことでなかなか異色の人生です。残る末弟の金田留広は、通算13年の現役生活で、434試合128勝109敗2セーブ、防御率3.25と、プロ野球選手として上々の成績を挙げています。
愛知学院大中退後、社会人野球日通浦和を経て、東映フライヤーズ(現・北海道日本ハム)に入団。1970年に24勝、1972年には20勝を挙げ、最多勝のタイトルを2回獲得しました。その後、ロッテ監督となった兄の引きでロッテへトレード。1974年には、先発陣の一角として16勝を挙げ、2度目の最多勝タイトルとともにチーム日本一にも貢献しています。
現役晩年は広島でプレーし、敗戦処理や中継ぎといった地味なポジションに徹しつつ、ムードメーカーの役割も果たしました。現在は、健康食品の会社を経営しながら、日本身体障害者野球連盟をサポートしていると伝えられています。
金田正一がZOZOマリンを訪問!ロッテへ「ピッチャーは使ってやって初めて成長」とメッセージ!
ロッテ監督を歴任した金田正一は、1973年に就任した当時、「あの400勝投手が監督になった」という話題性でマスコミからの注目度が劇的に高まりました。しかし、その当時のロッテは、今と違って認知度もイマイチ。ロッテだけではなく、パ・リーグ全体がマスコミからはほとんど見向きもされず、観客動員力でもセ・リーグに大きな差をつけられていました。
そんな中、タレントとしても知名度が抜群だった金田正一の監督就任は、パ・リーグ人気上昇の大きな起爆剤になったと言えます。「金田フィーバー」が大きく後押しした結果、今まで閑散としていた球場も、入場する観客の列で熱気ムンムン。当時は、前・後期の2シーズン制を採用していたパ・リーグにあって、ロッテがあわや前期優勝かという快進撃を見せると、急きょテレビ中継されるなど、観客動員に大きく貢献しました。
翌1974年には、中日を破ったロッテが悲願の日本一に輝きます。そんな監督時代を過ごしただけに、今でもロッテの勝敗は気になって仕方ない様子の金田正一は、「1年に1回は来ないと」と巨人との交流戦でZOZOマリンスタジアムを訪問。試合前には井口資仁監督らとベンチで歓談するなど、和やかなひとときを過ごしました。
今シーズン活躍していた荻野貴司も、「あんた選手か?」というカネやんの先制パンチにたじたじ。今後のロッテについては「何といってもピッチャー。使ってやって初めて成長する」と、カネやん節は今なお健在で、元大投手らしいメッセージを送りました。その人間性には賛否両論ありますが、400勝という実績は真似のできない大記録です。真剣に野球に取り組む姿勢は、後進にもどんどん見習ってほしいものです。